いつからか日常は変わるものなのかもしれない。

 不変のものなどきっとない。過去と未来で変わらない物も、きっとない。私は冷めきった自分の家庭を見て不意にそう思った。別に私は自分が不幸とは思わない。でも幸福だとも思わない。どこにでもいるような普通という言葉が程なく似合う平凡な人間なのだろう。きっと。
「蓮二は今、幸せ?」
 私は思いついたままをそのまま口にした。きっと隣にいる彼なら私がどんな事をどんなタイミングで口にしようが気に留める事はないだろう。
「お前は本当にいつも唐突に漠然とした事を聞く奴だな。」
「そんな。今更じゃない。」
 それもそうだな   私が特別だった表情をしなければ彼も単調にそれだけ告げた。
「発端はなんだ。お前がそういう事を言う時は何かがあったのだろう。」
 最もだった。やはり彼はすごい男だと思わざるを得ない。彼、柳蓮二が私の幼馴染だというのも、きっとより一層と私の言いたい事がなに故から来るものなのかをしっている一要因なのかもしれない。
 私は一度は開きかけた口をゆっくりと閉ざす。
「焦らされると人は気になるものだ。」
「あら。貴方もそんな大勢の人間と同じだったの。」
「いいから言って見ろ。」
 珍しく彼が急かしてきてあたしは余計と口を開くに開けなくなってしまう。私が彼に問いかけた漠然な質問と、それを問うた理由はあまりにも不一致であって、自分自身でさえよく分からないものだった。ただ聞きたかっただけなのである。人はただ単に生きているというだけで幸せという感情に浸る事が出来るのか、否か。
「パジャマがね、パジャマが転がってたの。両親の寝室の扉の前で。」
 私はつい昨日の出来事を脳裏に浮かびあげた。リアルな夫婦像を思いだす。冷めきった、夫婦像を。
 季節が季節ということもきっとあったのだろうと思う。父は連日の飲み会で遅い帰宅が続いていた。そんな酔い潰れた父を三日連続で目にした次の日、彼のパジャマが寝室のドアの前で無造作に転がっているのを私は見た。
 草臥れたその衣服を着る父も、草臥れた父の姿も、酷く惨めで情けない物なのだろうと思った。だから私は見なかった。母が眠りについた後に帰宅した父を見なかった。そんな不格好な結末を見ずとも夫婦仲が冷めきっているのはよく理解出来たからだ。
「私が目覚めた時にあったのは父の草臥れたワイシャツと蝸牛みたいに丸まった靴下だった。   なんか漠然と思ったんだ。ああ、なんか嫌だなって。やっぱり人は変わってしまうものだと思ったの」
 それがあたしの本心だった。別に幸せなのかそうじゃないかを自分自身に、そして彼に問いたかった訳ではなく、本当にただ漠然とした問いかけがそうなったというだけのことだ。ただ、こんなにも冷めきった夫婦の子である私がとびきりの幸せ者ではないというのだけは聞かずとも確かなことだ。
「どこの家庭も何れはそうなるものなのだろうな。」
「蓮二のところもそうなの?」
「取り立てて、という事はないがな。」
「そっか。どこも一緒なのか。」
 妙に納得した。いや、納得することでしか自分の中にある不快感と喪失感と得体の知れない何かを落ちつかせる事が出来なかったから。どの家庭も一緒なのだと、そう思うしかなかった。そして冷めきった両親にちょっとした反抗心を植え付ける事でしか収集がつかなかった。
 私は人一倍親の愛情を受けて育った子どもだったと自分のことながらそう思う事がよくある。今ではなく、まだ私が幼かったころの事だ。今はそれに該当しない。
 誰よりも厳しくて誰よりも優しい母と、少し威厳の足りない母の尻に敷かれている父と、何よりも何処から見ても仲睦しい両親が私は好きだった。だからこそこの現状に不覚ながらも心が対応しきれていないのかもしれない。
「不変のものなんてきっと何もない。」
「詩人だな。」
「馬鹿にしてるつもり?」
「それが分かるようになっただけ青葉も利口になった証だな。」
「嬉しく、ない。」
「素直じゃないな。相変わらず。」
「やっぱり馬鹿にしてる。」
 私は然して腹立つ事もなく無駄に続くやり取りを彼としていた。意味は何もない。何だっていい。ただ彼といるこの時間が酷く暖かで、自然で、私達にとって尤もなものであれば理由や意味なんて必要ない。私はそう思った。
「ねえ。蓮二はどう思う?不変のものはあるのか、否か。」
 不変のものがあって欲しいと望む一方で私は心のどこかでやっぱりそんなものは存在しえないのだろうと、そんな考えを巡らせた。だから彼の口から肯定の言葉を聞きたかった。どれだけ短い答えだろうと、感情が籠ってなかろうが、彼が言うのであればそれは本当の事であると私も信じ込む事が出来ると思ったのだ。なんて浅はかで、頭の悪い考えだろうとは思いつつも、私は彼の口から出てくる言葉に一里の望みをかけていた。
「悪いな。もう、時間だ。」
 教室にある酷く質素な白い時計がカチっと音を鳴らしていた。
「待って。答えない気?それとも   
   それとも蓮二も不変のものなんてないと思ってるから言えないの?
 そう言いかけて私は途中で言葉を止めてしまった。何故だかは自分自身分からない。ただ、本能的な何かが指示を出しているかのように私は口を閉ざしてしまった。きっと、答えを恐れていたからだ。
「時間外の相談は受けない質だ。」
「ケチ。」
 柳は私が届かない場所を黒板消しで消し、そっと元に戻すと足早に教室を出て行ってしまった。部活だからという事を知っていた私も無理に彼を止める事はしなかった。
 柳の消したまっさらな黒板に白いチョークを突き立てて漢字を書いた。不変。と。どうしてこの漢字は誕生に至ったのか。やはりそれは不変であるものがこの世に存在するからなのだろうか。きっとそういう事なんだろうと思いこませるのは簡単だったが、黒板に書かれたその漢字を消す事の方がよっぽど簡単だった。





 家に帰ると食卓に食器が二つ並べられてある。私と、母のもの。きっと今日も父は帰りが遅いのだろうと言う事は母に聞かずともなんとなく予測できるものだった。これが私の此処最近の日常なのだ。
 案の定父は日付の境界線を越えても帰ってはこなかった。私はそんな父の姿を待つ訳でもなく、徐々に眠りへと誘われていった。丁度その時だった。ガタンという音で私は目を覚ます。父が帰って来たのだろうか。しかし聞こえてくる足音はいつもと違うもののように感じられる。その足音はトットットと速足に寝室へと向かっていき、そして擦れた声で母の名を呼んだ。
 そこからは慌ただしい音がした。先ほどとは違う足音が煩く響き渡る。きっと母の足音だろう。その足音は何故か玄関へと向かっていく。私は部屋の窓からそっと外を覗きこんで真相を知った。寝巻のまま財布だけを持って家の前に止まるタクシー運転手に札を渡す。それは、父の所持金が不足している分を、頭を下げながら払っている母の姿だった。
 情けなかった。本当に。いつから父はあんなにも哀れで、情けない人になったのだろうかと思う。きっと私でも気づかない間に、徐々に、徐々に変わっていってしまった。不変であると信じていた父親像が、不変から遠ざかっていく。
 私は階段を上って来る母と父をこっそりとドアの隙間から見た。
 声こそは苛立ちをあらわしている母だったが、ドアの隙間から見えた表情にそんな感情は見当たらなかった。呆れていながらも、笑っている母の顔だった。冷めきっているとばかり思っていた夫婦仲は、実際のところそうでもないのかもしれない。そう思った。
 それは私が理想としていた昔の父と母の姿ではなかった。私からしたら変わってしまっただらしのない父と、それを介抱している母という昔とは違う二人だ。しかし少しだけ思ってしまうのだった。けれど、二人にとっては昔とは何も変わらず、関係は不変のものなのだろうか、と。




 次の日、私はいつもより少しだけ機嫌がよかった。昨日の夜の出来事を思い出すと、ああはなりたくないと強く思ったがそれ以上に爽やかな風が心を一掃しているようでもあった。
「どうした。顔が笑っているぞ。」
 柳も私の珍しい程の機嫌のよさに聊か疑問を持ったようで声をかけてくる。
「昨日、ね。」
「また昨日のことか。お前は昨日の話が好きだな、青葉。」
「いいじゃない別に。」
 私は機嫌の赴くままに淡々と昨日の事を彼に話し始めた。純粋に嬉しかった。酷く情けない父の姿であったことには違いなかったけれど、それでも私は“不変”のようなものを母と父に見た。不確定要素が多すぎる、“不変”ではあったけれど。
 昨日までムキになっていた自分を思い出す。不変が存在しえるのか、否か。でも今はどうでもよかった。あったとしても、なかったとしても、どちらでも。
「そうか。それはよかったな。」
「どうして蓮二にそんな事言われなきゃなんないのよ。」
 柳はフっと笑った。
「お前が理解に困る質問を当分しないだろうからな。目出度いだろ。   だが、」
 彼は言葉を止める。あの時の私のように。何か含みを持たせているのか、それとも企みがあるのか。私には彼の感情を読み取ることが出来ない。
   だが、特別に答えてやろう。
「俺は、今、結構幸せだ。」
 思いもよらない言葉だった。彼が不幸だと思っていた訳ではない。しかし感じていたにしても彼がそれを素直に口にするとは思いもしなかった。
「お前はどうなんだ。青葉。」
 柳の優しい声が揺れる。心地がよかった。
 私はきっと勘違いをしていたのだと思う。私は自分が不幸だとは思わない、だからと言って幸福だとも思わない。そう思っていた。でもそうでもないのではないか。この男の言葉で私は少しだけ考えを改まるに至った。
「はっきりとはまだ断言できない。でもこれは言える。昨日言った事は訂正する。」
「ほう。」
「不変のものは、きっとあると思う。」
 そう告げた私に彼は言った。「俺とお前のように、か?」。私は一度驚きに言葉が咄嗟に思い浮かばなかったが、一呼吸おいてから少しだけ柔らかい気持ちでこう彼に告げる事が出来た。
「そうであればいいね。」

 私は笑った。柳はいつものままだった。もしかすると彼的には笑っているのかもしれない。でもそれは私には分からない事だ。ただ一つ分かったのは、どうやら彼は少し腑に落ちない事があったらしい。その事だけだ。
「お前の鈍感なところもまた、不変でしかない。」

不変 - 20101208