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何もかもが嫌になった。自分を囲む環境だとか、この自由がない社会だとか、もうとにかく全てに嫌気がさした。人は人生に一度はそういう事もあるだろうって私の今の状況を一言で片づけるのだろうけれど、私にはこの先の事なんて何も、何一つ見えなかった。 親の期待にそぐう様に生きてきた。そんな私に用意されていたのが唯一勉学という青春を感じさせないレールに沿ったような未来だけだった。別に好きではない勉強だったけれど不運か幸運かそれが苦手ではなかった。私は決まった時期に行われる学期試験で上位に食い込む事だけを望んでいる、面白みのない勉強の虫のように周囲から見られているのだろう。 優等生ぶった生活に何の疑問も抱かずに生きてきた私にとって、その唯一の道が崩れ去った時、残るものは何もなかった。 私は初めて成績を落とした。今まで十数年生きてきて初めての事だった。その順位だって周りから見れば然程気にすべきものではないくらいの微々たるものだったけれど私に多大なる、不必要な期待を抱いていた家族には大きなものだったらしい。私は生まれて初めて親に反抗心を抱いた。 それでもそんな経験のなかった私はどう感情をぶつければいいのか分からず、ただいつもと同じように黙り込むくらいしか出来なかった。学校をさぼってみようかとも思ったけれどそんな勇気すら持ち合わせはいない。 授業を終えて向かった公園のトイレでジャージに着替えて私は土手に転がった。家に転がっていた父親の吸っている煙草を鞄に詰め込んだのを思い出してそれを取りだした。理科室に転がっていたチャッカマンで初めて咥えた煙草に火をつけてみる。 「なんだ……大した事、ないじゃん。」 煙草は大人な味がするなんて言うもんだからどんなものかと過度な期待をしていた私にはなんて事無くて正直がっかりした。もっと非日常へと誘ってくれる、そんな便利アイテムだと思っていたのに。 「ガキがこんなもん吸ってるのは十分大した事だろうが。」 何処かで聞いた声に私は思わず振り返った。この場には到底不釣り合いな、男の姿だった。私は彼を知っていたけれど彼は私の事を知る筈もない。会話だってまともにしたこともない、教員の姿だった。 「ウチの人間にこういう事されっと困るんだよ。」 「……何の事ですか。」 「この状態でしらばっくれるつもりか?そのジャージはウチのもんって証拠だろうが。」 「私、OBです。普段着として使ってちゃ悪いですか?」 見え透いた下らない嘘に彼は頭を抱えるようにしながらも、私の隣に腰かけた。私の知っている限りの彼は、きっと今すぐにでも強引に煙草を奪い捨てる筈だったけれど、今のところ彼は何も言わなかった。 「悪あがきも体外にしておけ、沢田。」 聞き流す様にしていたけれど、ふいに自分の名前を言い当てられて私は驚きに咥えていた煙草を土手の上に落としてしまった。まさか此処で、彼の口で、私自身の名前を聞かされる事になるとは想定にすらしていなかったのだから。 彼は一教員でありながらその優秀な才を買われて教頭という役職をも掌握している男だった。面識はほぼないに等しい。校門ですれ違った時に挨拶を交わす程度で、人数の多い学校で授業を受け持っている訳でもない私の事を彼が知っているという事の方が聊か可笑しな事なのである。 「人、…違いじゃないですか?」 「お前馬鹿にしてんのか。人を違えたつもりはねえよ。」 彼が、私を知っている理由が見当たらない。ミーハーな他の生徒のように彼の元に会いに行っていた訳でもない私が、私の名が、顔が、彼に知られているなんて、あまりにも不自然だった。 「教員でお前を知らない奴はいないさ。」 「……どうして。」 尋ねる私に彼は逆に驚いたように目を見開いて、少しの沈黙を挟むと再び口を開いた。 「学年首位ってもんは教員の間でも有名だって事だ。」 言われて酷く納得した。何故今まで気づかなかったのかと不思議に思う程に、彼の言い分は正論だった。そんな彼なら知っているだろう。もう、耳に届いている筈だ。今こうして私が柄でもない、優等生の枠を外れた事をしている、その理由が。首席を落とした、その事を。 「帰りますよ。気が済んだら。」 「そういう訳にはいかないだろうが。お前を見つけちまった俺には責任があるんだからな。」 「…そんな下らない。見なかった事にすればいい。」 そんな事を言った所で彼が引いてくれる筈がないと知っていながらも私は告げる。心のままに、我がままに。こんなに躊躇う事無く言葉を羅列したのはこの時が初めてだったかもしれない。私はいつだって周りの顔色に流されて、乗っかって、生きてきたから。 「こんなもの吸ったところで何も解決しないぜ。優等生がグレると質が悪いと相場は決まってんだ。」 そうかもしれませんね。私はまるで他人事のようにそう言った。でも彼の言っている事も強ち間違ってはいないのだろうなとも思った。私みたいに勉強の虫のような人間が狂うと恐ろしいものがあるのだろう。きっと普段から問題視されている他の生徒よりも、よっぽど未知数だから。教師にとっては一番手をつけにくい、触れたくない場所なのだろう。 「煙草なんて吸ってたらろくな大人になれねえぞ。」 彼は、何かを思い出す様にして暗くなっていく空を見ていた。 私は彼の車に乗っていた。とてもじゃないけれど格好がいいとは言えない、白い軽自動車で私を送っていくのだと言って聞かなかった。それが彼なりの教員としての務めなのだろうと思った。どうでもよかった。 男の人が運転する助手席に乗るというのはそれなりに世間では意味のある事らしいが、私は微塵にも何かを感じ取ることが出来ない。洒落ている訳でもなければ、先ほど私に止めろと言っていた筈の香りがその空間に充満していたから余計に何も感じなかったのかもしれない。 「生徒に煙草を吸うなと言っておいて、ですか。」 呆れたように言う私に彼はお構いなしにポケットから煙草を取り出して、それを咥えた。私がさっき咥えていたものと同じ銘柄。全く期待はずれな味ではあったけれど、やはり本当の大人が咥えるとそれが先ほどよりも幾分も大人のものに見えた。 「土方先生はろくな大人じゃないって事、体現しちゃってますよ。」 てっきり怒号の一つや二つ飛んできた後に拳が炸裂するかもと思っていたけれど、彼は眉の位置一つ変えずにそのままのかんばせに煙を燻らせた。怒号も拳も、本当は私が求めていただけなのかもしれない。 「…まあ、否定はしねえよ。」 「どうして。先生は立派な教師だし、その若さで教頭でもある。そんな貴方がどうしてろくな大人じゃないって言うんですか。それとも私を慰めてるつもり?」 彼はただ沈黙と煙を吐く音を交互に蔓延らすだけで肯定も否定もしなかった。私はたまらなくなって再び問いつめようと口を開きかけたが、彼がそれを制止するように少し昔の話を言って聞かせてくれた。 「俺には目標だとかなりたいものだとかがなかった。丁度今のお前と同じだ。」 何になりたいかを悩み、そして何も出てこない事に悩んでいたと彼は言った。本当にちょうど今の私と同じような状況だったのだと。色々馬鹿な事をしたと、それが具体的にどういう事だったのかまでは言わなかったけれど、本当にどうしようもない人生を危うく進んでしまう所だったと。 「そこで俺は教師になった。俺みたいな人間を少しでも減らす為にな。」 まさに彼にとって教師とは天職だったのだろうなと私は思った。彼の言っている事が私への慰めなどではないとすれば、彼は私のような人間の為にいるような教師なのかもしれないと。 「だからお前もこの車内に漂ってる煙今の内に吸い込んでおけ。これで、最後に出来るように。」 彼は私を家の前まで送り届けると何事もなかったかのように元来た道に車を走らせた。校則違反を犯した私に特別なお咎めをすることもなく、本当にあっさりと。ただ一言だけ、念を押す様に言い残しただけで。 「家出なんて馬鹿な事はすんなよ。」 ![]() 家の扉を開くと、いつもと変わりない重たい世界が広がっていた。母の視線も、家の中の空気も、私が唯一可愛がっていた犬ですら何だか張り詰めたように私を射してくるようだった。 私は心を開く事がいつの間にか苦手になっていた。あの人は勉強の虫だから、そう言われて遠ざけされていた方がいつしか楽になっていた。自分からは関係を作ろうとしないくせに、自分の周りには何もない事への嫉妬があった。誰も私の味方は、いないんだと。 私をかばってくれていた家族でさえ今は酷く他人に見える。どうしようもない、孤独感が私を襲った。 本当に今すぐにでも家出したい気分だったけれど結局いくじのない私は思うだけで何も出来なかった。用意された温かいご飯を食べて、お風呂に入って、布団に入るしか、そんな選択支しかない自分に私は絶望しかけた。 でも私は翌朝、味方を見つけてしまった。酷く不器用で、ろくでなしな、味方を。 私の家の電信柱の傍にずらりと並べられた缶コーヒーと、それを吸いがらにしている見覚えのある銘柄が、何かを見張るようにして私を見ていた。 まだ寒いこの時期に、私が家出をしないか確認をする、その為だけに。 私は校門をくぐり抜ける。前よりも少しだけ短くしたスカートが、風に揺れているようで少しくすぐったくて生温かい。嗚呼もう春なんだな、なんて呑気な事を考えながらスカートと一緒に少し短くそろえた髪が頬をくすぐった。 見慣れたクラスメイトに私は自分から声をかけた。きっと、初めて。おはようと。 不審そうに私と同じ言葉を繰り返すクラスメイト。明らかに可笑しなものを見る目が私を射抜いて行く。自分でもあまりに様変わりしてしまったと思う。彼らには私ではない私に、見えていただろうから。これがまさか本当の、私が望んだ私自身の姿とは、誰も知らない。 教室の通り道にある職員室で私は一人の男を見つけて、感情のままをかんばせに塗りつけ、笑った。 「土方先生、おはようございます。」 やはり彼も私の変わりように驚いたのか、あの時のように目を丸く見開いたけれど、暫くすると、私と同じかんばせを覗かせた。 「ああ。おはよう。」 その一言が嬉しくて、私はもう一度繰り返す。彼も、邪険に扱う事無く繰り返してくれる。私がようやく壊れた人形のように繰り返す言葉を止めた時、彼は背を向けて歩きだす。その後ろ姿が、とてつもなく、大きく見えた。 あまりに大きなその背中を見て、私は自分の小ささに泣きそうになった。それでも不思議と何かが満たされたような感覚が、私を包み込んでくれていた。 ( 20110309 ) |