江戸の街を歩く。慣れ親しんだ道、生まれてからずっと知っている道だ。夕食を作るための食料調達というなんて事のない、いつもと変わらない日常。魚を買って、野菜を買う。特に働いている訳でもない私には、これしか仕事がない。自分には他に出来ることがないと、少し情けなく思いながら食料の入った籠を抱えて帰路についていた時の話だ。
 あれだけ天気のよかった筈の空の雲行きが怪しくなっていることに気づき、急いで帰ろうと歩く速度を速めたが時既に遅し、頭上から大きな雨粒が額に弾けた。自分の運のなさにうんざりしながら私は雨を凌げる場所を探して足を動かす。   しばらく、雨は止みそうになかった。
 このまま濡れて帰ろうかとも考えたが、江戸の冬は寒い。もっとも、江戸以外の冬なんて知らないけれど。いまいち踏ん切りがつかない自分の感情と戦いながら、私はその場から動けずにいた。
。」
 ふいに自分の名前が呼ばれた事に理解が追いつかなかったが、目の前にはその大きい体を大きな傘で覆い隠している彼の姿があった。もう一方の手に、私の傘を持って。
「雨の中、散歩ですか。」
「人の好意くらい素直に解釈しろよ。」
 そう言って彼は私に傘を渡した。つくづく彼は優しいなと思う。その優しさは、普段の彼を見ていると意外に映るけれど彼はいつだって優しかった。女には甘い、なんて周りからは言われているけれど彼は皆に優しく、気遣いの出来る人だと思う。素直にその気遣いや優しさに甘えることのできない私はまだまだ子供なのだろうか。
「左之さんはもっとお金持ってたらもてるだろうな。」
「確かに金はねえが、何だ藪から棒に。」
「ううん。何でもない。」
 私は彼から傘を受け取り、開く。ようやくこれで帰ることが出来る。そう思うと、少しほっとした。
 私の買い物籠を代わりに担いでくれる彼の隣で、共に帰路につく。今日は何を作ろうかなんて暢気な事を考えていると、彼は突然先ほどの会話を思い出したのか私に尋ねてくる。
は、金がある男が好きか。」
「何。藪から棒に。」
「さっき金の話してたから、なんとなく。」
「まあ、ないよりはあった方がいいかな。」
「それは違いねえ。」
 お互い揃いも揃って貧乏な私たちには酷く不毛な話でしかない。試衛館道場に住み込みで門弟をしている彼も、そこの道場主の娘である私も、貧乏そのものなのだから。
「左之さんはさ、もし今大金が入ったら何したい?」
 叶いはしない状況を口にしてみる。夢を見るだけなら、お金はかからない。彼に尋ねて、私もそんな夢のような事に想像を膨らます。きっとその状況が叶えば、自分の人生も変わるのだろうななんて酷く単純で、人任せな事を思った。
「高いお酒でも買う?」
「……お前、俺の事なんだと思ってんだよ。」
「だって左之さんお酒好きだし。」
「まあ、否定はしないけどな。」
 さすがに彼も少し気を悪くしただろうか。気になって彼のかんばせを覗きにいこうとしたが、私よりもはるか頭上で傘をさしている彼のかんばせは隠れてうまく見えない。
 もし私に大金が入ったら何をするだろうかと考え、歩く。綺麗な着物を誂えて、簪でも買うだろうか。滅多に口にすることのできない高級食材を買うだろうか。浮かび上がってくる夢が、あまりにも陳腐なもので酷く恥ずかしいような気がした。貧乏人の考えることは、高が知れているということなのだろう。
「金があって困る事はないだろうが、俺は別にいらないかな。」
「変わってるよ、それ。」
「かもな。まあ尤も、そんな想像するだけ無駄だろうけど。」
 それもその通りだと思い、私もそうだねと一言付け加えてそれ以上を話すことはなかった。
 雨足は強くなる一方だ。彼がいなければ私はいつまであの場で雨宿りをしなくてはいけなかったのだろうか。彼の気遣いのおかげで、こうして今帰路につけている事に改めて感謝の念を抱いた。買出しに行くと告げた訳でもないのに、彼の察知能力の高さには驚かざるを得なかった。
「好きな女に何かしてやる為の金くらいは欲しいもんだけどな。」
 一瞬どきりと心臓が鳴ったけれど、冷静に考え直すとすぐに鼓動は落ち着いていた。彼が色町で人気がある、というのはこういう所なのだろうなと思う。ふとした瞬間に、こんな事を言うのだから。無意識なのか、意識的なのか分からないけれど前者であれば彼は酷く罪深い男だ。
「左之さん、伊予にいた時好きな子とかいた?」
「さあな。」
「何それ。別に隠すことないのに。」
「そういうお前はどうなんだよ。」
 言われてみて、考える。恋をしたことなんて、あっただろうか。きっとあったのだろうけれど、それが遠い昔のような気がして思い出すには至らない。道場に来た頃は土方を格好いいと思った事もあったけれど、それは恋心とは違う。彼のことだって格好いいと思うことはあっても、恋心ではなない。一体恋とはどんなものなのだろうか。そんな事を思う私は、やっぱり恋をしたことがないのかもしれない。
「恋って何だろうね。よく分からない。」
「詩人みたいな事言うな、お前は。」
 年頃と呼ばれる齢になったのに、色恋沙汰に私は疎い。興味がない訳ではない。けれど、どうしようもなく胸が締め付けられるように軋んだりする感情を私はまだ知らない。好きな人がいるという友人から話を聞くと羨ましいなと思う反面、どこか他人事であまり自分の中に入ってこないのも事実だった。
 彼は、恋と呼ばれる感情を知っているのだろうか。一瞬そう考えたが、知らないわけがないとも同時に思う。これだけ気が使えて、顔が整っている男が今まで恋をしてこなかったなどあり得ない事だ。言い寄ってくる女もいれば、自分から言い寄って落ちない女もそう居ないだろう。それに何より彼は私よりも長く生きている分、そんな機会も多かったのではないだろうか。
「これから人を好きになる事なんてあるのかな。」
 恋をして、一緒になって、子供を生んで、そんな世の中の当たり前とされる事を、未来の私は当たり前にしているのだろうか。今の私には分からない。数年先に、そんな未来があるなんて想像にもつかなかった。特に今と変わりのない日々が、続いていくような気がしていた。
 父から道場を継いだ近藤がいて、その門下生である彼らがいて、そんな彼らの身の回りの世話をきっとしているのだろう。今と特段代わりのない未来を想像して、また、それが未来であっていいと思った。金はなくとも、特に不幸なわけではない今が、続けばそれでよかった。
「あるだろ、きっと。」
「どんな人なんだろう。私が好きになる人。」
「金持ってる奴か?」
「持ってるに越した事ないけど、多分違う気がする。」
 こうして雨が降りしきる中、傘を持って現れるような優しい男がいいのかもしれないと、ふと思う。彼の前でそんな事を口にすることはしないけれど、彼を見ると、なんだ?と言われて何でもないと返事をした。
 見慣れた私たちの帰るべき所が視界に映し出された頃、ようやく雨が弱まっていた。まるで私が外にいる時に集中的に雨を降らせていたかのように皮肉な雲行きだった。
「左之さん、傘ありがとう。助かった。」
「なら、よかった。」
 彼はそう言って、買い物籠を下ろす。彼の着物も、私の着物も雨で重たくなっていた。彼は袴の裾を絞るようにして水を地面へと落としていく。私もそれを見習うように着物の裾を持ち上げて絞り上げる。
「風邪、引くなよ。」
 どこまで気遣いが出来る男なのだろうかと、感心する。飛んできた手ぬぐいを私は受け止める。これで濡れた体を拭けばいいという意味なのだろう。そうしようとしたとき、ふわりと彼の匂いが漂った。
「左之さんの匂い、するね。」
「臭いって言いてえのか。」
「なんか、男の人の匂いがする。」
 言われた彼は少し複雑そうなかんばせを浮かべながらも、笑ってくれた。変な事を言う私に怒ることもなく、いつだってこうして優しく接してくれる。心地いいと思える一幕は、彼といる時に感じることが多い気がした。
 こんな日常を、未来の私はどう思うのだろうか。もっと幸せな未来があると言うだろうか、それともそんな過去が一番幸せだったのだと私に告げるのだろうか。分からないけれど、きっと今の私は恵まれている。金に困る事はあっても、心は満たされているのだから。こうして彼と一緒にいて、他愛もない話を出来ている事を平和と呼ぶのだろうと思う。こんな生活がこのまま続けばいいなと、そんな事を思った。
「ま、男だからな、俺も。」
「そっか。左之さん男の人だったね。」
「忘れんなよ。」
    こんな今が、ずっと続けばよかったのに。幸せな時間は長くは続かないという言葉が存在するのは、実際にそういう事が起き得るからだ。幸せと感じた日常から、彼は綺麗さっぱり消えぬけてしまった。
 彼が、彼らが京に行ったのはこの少し先の事だった。
 自らの力を役に立てたいとそう思っていた彼らにはとても名誉な事に違いないだろう。混沌としたこの世の中で、彼らの力は必要とされるものなのだと私にだって理解が出来る。けれど、それを受け入れるという事は彼らとの別れを意味していた。綺麗さっぱり、私の前から日常が消え去った。
「元気でな、。」
 旅立つ際に、彼は私に置き土産を置いていった。金がないと嘆いていたなけなしの金を叩いて私にそれを残してくれたのだと思うと、どうにも気持ちの整理がつかない。これも、彼の優しさなのだろうか。簪なんて使う機会がないのを分かっているくせに、そんないかにも女らしい置き土産を、私に手渡した彼はもう江戸にはいない。
 私の日常は変わらない。変わったのはそこから彼ががいなくなったというだけの事だ。日常からそこだけ切り抜かれてしまったかのように、他は何も変わらない日常だ。
 今日も、いつかのように大粒の雨が降っていた。けれど、そこに傘を持ってきてくれる彼はいない。雨にぬれて帰るか、雨が止むまで何処かで時間を潰すかの二択しか私には持ち合わせがない。いつかのように、幸せな三択目は、存在しない。
 あの日の彼の言葉を思い出す。金がある男の方がいいのかという話を。そんな話をした時は、あるに越した事はないと思っていた。事実、あって困るものではない。けれど、思ってしまうのだ。金などなくとも、彼が傍にいればそれでよかったのに。気づくのが、遅かったのかもしれない。気づいていた所で、彼が江戸に残ることも、私が一緒に京に行くこともないのだから考えたところで意味はないのかもしれないけれど。
 今でも彼の遠くなっていく背中を忘れることが出来ない。胸が軋む。あの時知らないとばかり思っていた感情が、今になって私を襲ってきた。
 その感情に合致するものが何であるかを分かっていながらも、認めたくないと拒む。あの時にこの感情に気づいていたのであれば、今というこの時は変わっていたのだろうか。考えたけれど、答えは決まっていた。いずれにしても、結末は同じだったのかもしれない。
「気づかせていなくなるなんて、ずるい。」
 このまま想いのままに私も京に行けたのなら、よかったのに。
 そんな事など出来るはずもない意気地のない自分をもどかしく思いながら、彼からの贈り物を今一度手のひらで握り締めた。いつかに彼が言った台詞の相手が、自分であったらいいのにと、そう思いながら。

♯空白の心を食む
( 2020'02'12 )