![]() 「あ…………」 目を覚ますと私の体は極端に左端に寄っている。この一ヶ月ほぼ毎日の出来事だ。そして体の右半分にはぽっかりと何かが抜け落ちているかのような塊の跡がある。その塊の跡を付けた本体は日課となっているロードワークに出ているのだろう。これも毎日の出来事だ。 カーテンを全開にしてからロードワークに行くのがリョータにとっての日課になっていて、私は否が応でも日差しと共に起床することになる。大人になれば必然的に軽々と朝も起きれるようになると思っていたがそういう訳ではないらしく、十年前の自分に教えてあげたい等と実にくだらない事を考えながらベッドから体を起こす。この時点でまだ私の口は何の言葉も紡いじゃいない。 ぼやぼやしながらウォーターサーバーで冷水をグラスに注ぐ。朝は白湯がいいと常々言っているリョータの言葉は一旦忘れてキンキンに冷えたどの山から流れているかは忘れたが美味しい水で喉を潤す。時々リョータがどこぞの美容家みたいな事を言うのでそこそこに受け流している。 洗面台でまだ目覚めきっていない自分のぼやけた顔を朝から見るのは中々の苦痛だが仕方がない。これだって自分の年齢と同じだけ付き合ってきている日常なのだ。 あ、と今日初めてとなる言葉が出たのは私が歯磨き粉を手に持ってブラシに向かって中身を捻り出そうとしていた時のことだ。ポスっとすかしっ屁のような音が鳴った後に続けてポスポス言いながらかろうじて一人分の歯磨き粉がブラシに乗っかった。 「………はや。」 同棲を始めて一ヶ月が経った朝、ボヤキのような独り言が出た自分を鏡越しに見ていた。声に出す必要はないと分かっているのに、つい出てしまった。一人暮らしをしていた時はなかった現象だ。自分以外の誰かと一緒にいることに慣れてしまったのかもしれない。 ふいに考える。 一人で暮らしていた頃、今のような現象はどれくらいの頻度で到来していただろうか。独り言の方ではなく、歯磨き粉のすかしっ屁の方だ。少なくとも一ヶ月やそこらで無くなっていたという記憶はない。記憶喪失じゃない!と断言する自信はないし、一ヶ月以内で使い切らないお前の歯周病は大丈夫か?と思われても嫌なので、一度寝ぼけたフリをして忘れたことにする。今のところ登場人物は私だけだが、よく分からないストーリーが出来上がっている。そこには何のドラマもないので期待しないで欲しい。 「お〜起きてたか寝坊助。」 「あと三十分は寝れたけどどっかの誰かがカーテン全開にするからお陰様で。」 「どういたしまして。」 「耳掃除しますか?」 歯ブラシを右頬に突っ込みながら、右手を使って洗面台に向かって穂先をカンカンと打ち付ける。歯磨き粉なんて数百円で買える比較的手に入りやすい消耗品で、薬局で種類を選ばなければ百円を切るものだってある安価なものだ。 それなのにどうして人はこうして足掻いてしまうのだろうか。答えは簡単だ、買いに行くのが面倒だからでしかない。私の一人暮らし歴が私にそれを教えてくれた。良くも悪くも学びだ。何一つとっても面倒くさがりだと自分の事を認識したのは社会人になって家を出たタイミングだった。 「リョータ今日燃える日のゴミ。」 「それ言うなら燃えるゴミの日な、いい加減起きなよ。」 「あ〜ホントだ。まとめといてくれる?」 「もう纏めたし、さっき出してきた。」 リョータのことは付き合う前の高校時代からクラスメイトとして知っていたけれど、これだけテキパキとマメに家事をしてくれるとは思っても見なかった。同棲する前にリョータの実家に遊びに行った時には食べた皿もそのままだったのも見ていたので、何となくそう思っていたのかもしれない。 「ふうん。」 私のその仮説はまるで外れていて、そして全て私自身にブーメランのように突き刺さる。何も出来ないのは私の方だったと同棲して一週間の時点では感じていたからだ。家事全般が好きでも得意でもない私は結局リョータに頼りっぱなしのおんぶに抱っこの同棲生活だ。 「毎朝歯磨いてるの鏡越しに見られるのしんどいんだけど。」 「毎日ゴミ捨ててる俺にそれ言えんの?」 「それはそれ、話の軸が違います。」 シャコシャコと私の口の中を上下左右しているだけの何の面白みもない光景だ。映画であれば確実にカットされるようなシーンだ。そんな切り捨てられるべき光景をリョータは日常に取り入れている。どこぞの美容家の一件とは別としても、私には中々理解のできない日常だ。でも、そう言えばその背景を聞いた事はなかったかもしれない。 「同棲ってか俺の特権じゃないの?朝一番に彼女の顔見れるのって。」 まさに「何でいつも見る訳?」と聞くために歯ブラシを取り出そうとした時、それを汲み取ったかのようにリョータの口が私の疑問を紐解いていく。この男、気怠そうな顔をしながら時折とんでもなく惚気た甘い言葉を放り出すことがあるので私の目が覚めることにも一定の貢献をしているのかもしれない。付き合っていた頃から分かっていたことだけど、一緒にいるとより如実に感じられるもので、一ヶ月やそこらではまだ私の心臓が日常として受け入れていないようだ。 「こちらとしてはせめて化粧したバッチリの顔見てほしいもんですけどね?」 素直に言葉のままを喜べるタイプならいいのにと思う。自分でもそう思うのだから、きっとリョータも心のどこかでは少なからずそう思っているのだろう。でもそれを言語化された事はないし、文句も言わない。その代わりに、こうして淡々とした表情でどうしようもない愛を紡ぐのだ。平気な顔をして。 「それは俺以外の奴でも見れるじゃん。」 「なんで人類皆敵みたいな立ち位置?」 「そりゃこっちはちゃんと褒美を得るだけの事してっからね?」 本当は私がゴミの話を持ち出さなくてもリョータがゴミを纏め、そして捨ててくれていることなんて知っていたのだ。ただ、それを毎度気づいてないフリをしているのだ。あまりに真っ直ぐすぎるリョータの感情が、まだ私には少し擽ったい。 「リョータさ、歯磨き粉ないの気づいてた?」 「同じの使ってんだからそりゃ分かるっしょ。」 私がいかにズボラかということは一旦スライドしたとしても、やっぱり一ヶ月で歯磨き粉がなくなるのはここ数年の私の日常にはない常識だ。 「てか買ってきてるっつうの。」 リョータはロードワークついでに買ってきたのか、ポリ袋の中から歯磨き粉を取り出した。最適なタイミングで、まるで私が今日こんな事を言い出すと予知していたかのように正確に。 「逃げ道があるとでも思ったの?」 「………まあ、時にはあるかもと。」 「まだまだだね。」 聞いたことのありそうな何処かの誰かの決め台詞と共に、一番フレッシュな状態の唇に毎朝の温もりが重なった。私は自分がこの日常を受け入れているという事をきっとまだ受け入れられていないのだろう。それはあまりに甘美で、私にばかり都合がいいような気がしているのだから。 アメリカと日本の遠距離を長く続けていた私たちにとって、こんな瞬間はまだ夢見心地なのかもしれない。中々減らない歯磨き粉と、中々使われることのないもう一つの歯ブラシを見ていたからそう思うのだろうか。 今は二人で同じ回数だけ歯を磨いて傷んだ歯ブラシを見て、同じ時を過ごしているのだなと感じて変な気持ちになる。それは嬉しいという感情に他ならないのだけれど、素直に伝えるという動線を持ち得ていない私にとっては、とても難しい事なのだろう。 友達としての付き合いが長く、リョータが渡米してから付き合った私たちは正しい甘え方を知らないのかもしれない。だからこそリョータがそれを壊すように新しいルーティンを作り上げるのだ。 「減りが早いのも考えものだね。」 「幸せの証拠なんじゃん?」 いちいち理由をつけないと甘えることの出来ない私の面倒な習性を会得したリョータは、キスにも条件をつける私に、きっとこのタイミングで待ち構えているのだろう。最もフレッシュな瞬間を齧るために。私はトマトや新鮮な野菜じゃないのに。 何かの拍子にすぐに歯を磨きにいくリョータの行動も、歯磨き粉の減りを早めているのかもしれない。けれど、それは彼が言うように一つの証になっているのだろうとも思う。いつのタイミングでこのくだりを廃止するかを頭の片隅で考えながらも、こんな歪な形でさえも幸せを具現化した事象なのかもしれないと思うのだ。 十八時間ぶりに飛び込んだいつものベッドは、なんだか不思議と特別な感じがした。 あと数分もすれば今日が終わる。今日が終わっても明日はやってくるし、明日になればそれは必然的に今日になる。どれだけ今日という日が特別な一日だったとしても、簡単にそれは過去になっていく。 「メイクくらい落としなって。」 「え〜、折角プロにメイクしてもらったのに勿体無いじゃん。」 「勿体無いと思ってる奴は顔面からベッド飛び込まないだろ。」 「冷静なツッコミやめてくれる?」 あ〜だこ〜だ言っている間に時間が過ぎていたようで、少し主張の大きい音で秒針がカチっと音を鳴らしていた。どうやら今日は昨日になって、明日が今日になったらしい。今この瞬間、私たちの結婚式は昨日の過去の出来事になっていた。 「にしても流石に今日ばっかりは疲れたわ〜。」 「リョータのスタミナも無限って訳じゃないんだ?」 「俺のことサイボーグとでも思ってんの?」 「ん〜、そんな事はないかもしれないけどやっぱそうかも。」 「どっちだよ。」 血が繋がっていない相手と家族になるってすごい事なのかもしれない。そんな事を今更ながら思う私は冷めているのだろうか。夢のないリアリストなのかもしれない。物心ついた時から当然のように側にいてくれた母と父が元々は他人だったと、そんな事を考えた事は一度もなかったから。 「私ってリョータとどこか似てる所あると思う?」 「なに急に。」 「ううん、ないな〜と思っただけ。」 左の薬指を彩っている光に角度を変えて更なる光沢を与えながらそんな話をする。多分、いや絶対に結婚初夜にこんな事を考えている私は世間的に見て圧倒的マイノリティなのだろうと自覚している。 「それってないと駄目なやつだっけ?」 「どうなんだろうね?」 高校時代の同級生であるリョータとの付き合いは長くて、リョータのことはよく知っているつもりだ。遠距離を経て一緒に住むようになって、そして今日を迎えているのだから多分そこら辺の人よりは彼のことを知っているだろうと思う。 類は友を呼ぶという言葉があるが、類は恋は呼ばないのだろうか。ふと、そんなことが脳裏を過っていた。結婚した事を後悔している訳でもマリッジブルーな訳でもなくて、しっかりとこの境遇を他にない幸せだと思っている事実を先に述べておこうと思う。 「式のことだって全然意見違ったしさ、実際に結構揉めたじゃん。」 「まさか結婚式なくていいって言うとは思わないよなあ。」 「え、そう?それ言うならリョータが結婚式やりたいって言うと思わなかったな。」 何もかも知っているつもりでいたのに、そうじゃない事を思い知ったきっかけとしても記憶に残っている。湘北バスケ部の飲み会とか、所属チームの飲み会にも特別誘われた事はなかったし、元々のリョータの性格を考えても表立って何かをするのは寧ろ嫌がるだろうと思っていた私の考えは百八十度覆されたのだから。 「ケジメじゃん?」 「なにその任侠的な感じ。」 「あとは牽制もあるし。」 「よくそこまでハッキリと言うね?」 プロポーズされて暫くした頃、式はどこでやるか?とリョータから聞かれてお互いの認識の違いに気がついた。 私とリョータが似ていると感じる部分はあまりなくて、寧ろ似ていない所の方が多いと思う。でも、似ているからと言ってそれが全ての正ではないと思うのだ。考え方が違っても、ならばどうすべきか?リョータはいつだってお互いのちょうどいい所を擦り合わせてくれる努力をしてくれる人だっからから。 「にもちゃんと分かって貰わねえと困るし。」 「分かるって?」 「俺が今誰を見てんのかって。なんだかんだ自覚してなさそうじゃん?」 「いやいや……流石にプロポーズまでされてそれはないっしょ。」 過去は過去で、今は今だとしっかりと割り切っているし、しっかりとリョータから想ってもらっている事は重々理解しているつもりだ。だから付き合ってから過去のその事実を口にした事はない。それが逆にリョータにとっては気がかりだったのかもしれないけれど。 「て言うかさ、本当の事言うと……」 「言うと?」 「……やっぱやめとく。」 「そんな言いかけといて今更?」 「だって絶対引きそうじゃん。」 「そんなの言ってみないと分かんないじゃん。」 「そんな事ないよ!じゃないのかよ、リスクありすぎだろ……」 結婚式をする事に少しの躊躇いを感じたのは自分の事じゃなく、リョータの事だった。もし式を挙げるとなれば色んな人を呼ぶことになる。元々が高校時代の同級生ということもあって、共通の知人も多い。勝手に色々とリョータの事を詮索する人もいるだろうと思ったのだ。なにせ、嘗てリョータが何年も真っ直ぐに思い続けた彼女も共通の知人であり、私にとっての親友でもあったのだから。 「大々的にしちゃえば流石に後戻りできないとか……せこい事考えてたって意味だから。」 それはきっと半分はリョータの本音で、やっぱりもう半分は私への気遣いもあったのだろうと思うのだ。口にはしないながらにも、きっと自分に自信を持てていない私のために。 「なんかやっぱりリョータは優しいなあ。」 「は!?今の言葉ちゃんと聞いてた?」 「聞いた上でそうだな〜って思ったからさ。」 「…………」 リョータは暫くの沈黙を保ったまま、クイーンサイズのベッドに転がる私の隣に同じように転がって左手を翳すように天井に向けていた。 「優しいとかじゃなくてさ、どれだけ相手に譲歩できるかだと思うんだよね。」 「ん?」 「どうしても欲しいものって何かを犠牲にしてでも手に入れたいでしょ?だからそれは優しいとかじゃないんだって。」 付き合って欲しいと言われた時よりも、一緒に住まないかと言われた時よりも、案外すんなりと結婚して欲しいとストレートにプロポーズされた時よりも。知り合ってから今に至るまで色んな転機があった筈なのに、今の言葉が一番ズドンと突き刺さったような気がしていた。それは今までと違って、私の想像を超えた、予知できていない言葉だったからなのだろうか。 「なんかさ〜、」 「なんだよ。」 「今になってようやく実感したかも。」 「なにが?」 「結婚したんだって。」 「いやいや…今日山程感じる場面あったでしょ。」 似ているだけでは仲良くなれても、きっと家族にはなれないのかもしれない。自分と違う相手を認める為に分かろうとする努力ができること、それが似ていない二人を家族にするのだろう。もう二年以上も変わらず同じ部屋で一緒に住んでいるリョータに、初めて新しい感情を覚えたような気がする。 「ご飯食べたらドレスはち切れないか気が気じゃなかったしさ?」 「そんな花嫁見た事ねえよ。」 「手前のテーブルで瓶ビール飲んでるの見ていいなあって我慢したし。」 「花嫁の手酌とか見た事ないしマジでやめてって。」 まさか結婚式が終わってから新しい感情を覚える事になるとは夢にも思わない。まるで二度目のプロポーズをされたような気さえするのだから。誓いの言葉なんかよりも、今この瞬間私は酷く納得してしまったのだ。 「リョータに選んでもらった私の人生は幸せだなあ。」 「……言質取るために録音しとく?」 「心配性。」 欲しいものを手に入れるには、相手を認めた上で歩み寄る必要がある難しいことなのだと改めて思い知らされる。そして、それが出来る相手は数少ないという事実。それだけでも、少なくとも今の私には十分幸せすぎる事実だ。
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