![]() 恐怖がないと言えば、それは嘘になる。 京の街が戦場と化していく様を見ながら私は震えていた。決して私達に対して良心的な街ではなかったけれど、それでも私はこの街が好きだった。あの煌びやかな街が、少しずつ変わっていくようで、自分の知らないものになってしまいそうで、自分の無力をこれ程までに呪った事が嘗てあっただろうかと、唇を噛みしめた。 「青葉ちゃん。」 ふと、私の耳に安堵するような、穏やかな声が掠めた。 普段何かとつけて私をからかい、執拗に怯えさせるような事ばかりを言う彼の声が今はいつになく優しく、頼もしい響きを含んでいた。恐怖に震える私を包み込むような優しい彼の顔が、こちらを見ていた。 「君は怖がりだからね。もしかしたら震えてるんじゃないかと思ったんだけど…どうやら大正解だったみたいだ。」 彼の瞳に映る自分の姿に、私は震える体を必死の思いで留まらせる。彼を信頼していないという訳ではなかったけれど、弱みを見せたくないと思ったのだ。 「……少し、寒かったものですから。」 「そう。君は意地っ張りだなあ。僕は別に君をからかいに来た訳じゃないのに。」 「本当に寒かったんですよ。」 必死な物言いの私を見て彼は呆れたように、でも笑っていた。そこには私が知っている彼よりも、少しだけ棘が取れたような彼の顔があって、思わず私も気を緩めてしまう。 ふと、彼の匂いに包まれて、暖かさを感じた。 「寒かったんでしょう?」 それが私の強がりと知っている筈の彼は柄にもなく優しく、私の強がりに気づいていない素振りで自身の羽織を私に覆いかぶせた。まるで彼に抱きとめられているような、そんな暖かさに少しだけ頬が染まったような気がした。 「……ありがとうございます。」 「うん。素直なのはいい事だよ。」 彼はそう言った後、突如凍てつくような瞳を宿して私に尋ねた。 「現状を、知りたい?」 少しの躊躇いの後、私は決意を決めたように首を縦に振る事でようやく返事をした。私は武士でもなければ、新撰組の隊員でもない。今この街が、この戦が、どうなっているのかをただの上っ面でしか知らない。私は結局彼らと同じ境地にいないのだ。 彼は時折私の表情を窺い、気遣いながらも刻々と話を続けた。いかに自分たちが、そして京の街が危険にさらされているのか、余すことなく残酷な事実が私の耳元を通り抜けていく。 それでも、彼は表情を変えなかった。普段との違いが歴然としている彼の表情からも戦の状況はうかがい知ることが出来る。きっと、私達は近い内にこの住み慣れた屯所を出る事になるのだろう。そう思わざるを得ない、彼の言葉だった。 「怖い?逃げ出したくなった?」 私は頷きそうになる自分の首を必死に留め、無理やりにでも横にそれを振るって見せた。きっとそれは彼を前にして無駄な抵抗とは分かっていたけれど、それでもそうしなくては今此処に立っている事も敵わない程の恐怖心に苛まれそうになったのだ。怖くない、私は逃げ出したりはしない、そう自分に言い聞かす様に。 ない頭で必死に考えた。一体自分が何を出来るというのだろうかと。 「沖田さん、私此処が、新撰組が好きなんです。確かにそれは居心地がいいからという事もありますけど、そんな一言で覆い隠せないくらいのものが此処にはあります。私にとって、足りない物を補ってくれる、大切な場所です。 だから、」 だから、そう言いかけて私は言葉を止めた。この先の言葉を言うのが阻まれたから。きっと彼はそんな事を望んでなどいないに違いないと、私は知っていた。 「私も、戦います。」 困ったように笑う彼に、私も引き返せずに声を震わしながら告げる。「私、これでも武術と剣術の心得があるんです。今から土方さんに言えば 」言いかけて、再び止まる私の口を見計らったように彼の口が割って入る。 「青葉ちゃんなら分かるでしょ?それは僕達の負担を増やすだけだって事。」 思った通りの彼の言葉に私は項垂れながらも、不純にも安心してしまった。それでもこの言葉を言った時だけは本気でそう思っていたのだと自覚する。そして、彼の言わんとしている事が如何に正しいかを痛いほどに分かった。私は、やっぱり無力だった。 「別に君が邪魔だって言ってる訳じゃないんだ。」 「……でも無力で守られる事しか出来ない私はやっぱり邪魔でしかないですよ。」 武力でも、きっとそれ以外の事でも私の存在なんて新撰組からしたら邪魔で厄介なものでしかないだろう。戦いの中にただの女など無力でしかない。分かっているからこそ、何も出来ない自分が悔しかった。 「……そうだね。きっとそうなんだろうと思う。」 彼はいつだって痛いほどの本音を口にする。今も、きっと彼の、そして新撰組の本音に違いない。自分が無力である事を否定して欲しかった訳ではなく、ただ彼の本音が少しだけ私を落ちつかせた。不思議と悲しみや、虚しさはなかった。 「でも私は無力ながらに思ってしまうの。何かを、守りたいって。」 彼の本音に私も本音を打ち返す。違いのない私自身の本音であって、ただそう思う事しか許されない願望を。 すると彼は見た事のないような冷淡なかんばせに、一言だけ言葉をのせた。 「口で言うだけなら簡単だよ、誰にだって出来る。」 最早その通りでしかない彼の言葉に、私は返す言葉も見つからない。もう一度彼を見上げると、そのかんばせが少し歪んで見えた。まるでそれを自分にも言い聞かせているような、彼には似合わない苦しい顔だった。 しかし固まって動けない私を見ると再び優しく表情を崩した彼が私を見ていた。 「ごめんね。でもこれは事実なんだ。」 「……はい、分かってます。」 「君を怖がらせたかったんじゃない。僕は君を安心させる為に此処に来たんだよ。」 そう言った彼はそっと私に一輪の花を差し出した。この時期には珍しい、酷く綺麗な一輪の花を。戸惑いに視線を向けると、何故か彼は困ったようで、また、罰の悪そうな表情でこちらを見ていた。 「これね、近藤さんが屯所の裏で見つけたんだって。きっと君がこの戦で滅入ってるだろうから、少しでも気が紛れたらいいんだけどって僕に持たせたんだ。」 近藤さんが?とそう尋ねたら彼は悔しそうにしながらも何処か自分の事のように誇らしげに頷いた。 「君がこんなに怯えてる事、君の傍にいる僕よりもあの人は気にかけてた。それがね、少しだけ悔しいんだ。」 でも近藤さんは凄い人でしょ、と言う彼の笑顔に悔しさや曇りは見当たらなかった。彼は本当に局長であるその男を尊敬しているのだなと思うと同時に、私も同じ意志を抱いた。ただの厄介者でしかない私を、気遣ってくれる暖かさに涙が出そうだった。 「これからは僕が気づけるようにするから。」 「……そんなの、いつもの沖田さんらしくないじゃないですか。」 「酷いなあ。僕、結構優しいんだけど?」 素直に頷けない私にも彼はいつもの調子でいてくれる、それが酷く心地のいい空間に感じられて仕方がない。私なんかじゃ到底届く事の出来ない、ずっと先を見据えた彼の瞳が何処までも逞しく見えた。私の知っている沖田総司とは違う、酷く逞しい一人の男として。 「僕もいつか近藤さんのような逞しくて優しい後ろ姿になれるかな。」 私は返事をしなかった。彼は不思議そうに私の答えを待っていたけれど、私には最早彼の後ろ姿が眩しい程にあの人に近く見えていたから。脳裏の中の局長と彼の後ろ姿が見事なまでに、重なっていた。 痺れを切らしたのか彼は私の返事を待つのを止め、一言だけ呟いた。 なれるといいな。 私は一度頷いた。彼がもうすぐ憧れの人と同じ領域に入っていくような気がして。その後ろ姿はもう、彼の望んだ姿になっているのに。彼はそれを知らないのかと思うと私は少しだけ気が緩んで、笑った。彼は不思議そうに私の笑みの理由を問うたけれど、私はただ小さく笑い続けるだけだった。 「君が戦いたいと思う気持ちは分かるんだ。でも君は無力だ。そしてこれは忘れないでいて欲しい。」 驚くほどに凛とした彼の顔が、私を射抜いた。 「君の代わりに僕たちが戦う事は出来るんだ。その為に、僕らがいるって事を忘れないで。」 いつものように悪ふざけをしている彼の顔からは到底想像もつかない程に、彼は立派にこの時代を生きているのだと改めて感じさせられる。私は自分の無力さを痛感しながらも、頼もしい味方に少しだけ希望を見た気がしていた。 返事を催促する彼の言葉に私の唇は素早く はい の二文字を夜の空気へと吐きだした。迷いの消えた夜に見た彼の顔は、まるで見た事もない程に最も美しい花のように、凛として私を見守ってくれていた。 ( 20110316 ) |