着火
 食卓に並べられた彼の言う質素な具材が鍋に飲み込まれていく、そんな様を二人はじっと黙ってただ見つめていた。一通りの具材を火にかけると蓋を閉じる。鍋が、ぐつぐつと煙を上げていた。
「こうやって待ってるのがつまらないと思わないかい?」
「別に。普通はこの時間で色んな世間話とかをするものだと思うけど。」
 まだ蓋を開けるまでには時間がある。それが彼は面倒だと言って、待ち遠しそうに煙の行く先を見つめている。そして鍋はいちいち具材を何度も取り分けなければいけないから面倒なのだとも言って見せた。
 そう言えば彼と一瞬でも“普通”と思える事や、会話にしたってした事があっただろうかと青葉はふと考える。しかしそれは考えるまでも分かりきった答えでしかなく、やはりNOでしかない。
「久しぶりに一緒に食事をする二人にはぴったりなディナーじゃない?」
「へえ。じゃあ青葉が何か世間話でもしてみなよ。」
「そういうのは非日常に生きる臨也の方が聞いてて面白いと思うけど。」
「たまには君の面白みのない話を聞いてみるのもいいかと思って。」
 最早嫌味にしか聞こえない臨也の言葉にも青葉は腹を立てる訳でもなく、ただその言葉を受け止めたように考える。彼に聞かせるだけの何かがあったのだろうかと。何も、なかった。
 臨也は彼女が何も話の種を持ち合わせていない事を知っていながらもそう言ったに違いない。彼の顔が、愉快に歪んでいく。
 さすがに彼の思う壺に嵌まるのは聊か気に食わないとでも思ったのか青葉は必死にここ数週間の記憶を辿り、巡らせた。しかしやはり悲しい程に乏しい自分のスケジュールを思い出すだけで特に話をするだけの何かは思い浮かんではこない。
「鍋、煮えちゃうよ。」
 先ほどよりも明らかに勢いをつけた湯気が臨也の表情を余計と憎たらしく見せていた。そしてようやく彼女は思いついたのだ。いい、話の種を。
「私の事、好き?」
「……何それ。新手のギャグ?」
「聞いてるの。」
 未だ嘗て一度も彼に聞いた事のない言葉を紡いだ彼女に待ち受けていたのはあざ笑うかの如く笑う臨也の表情だけだった。長い付き合いながらも一度たりとも聞いた事のない言葉に、まともな返答さえ与えてはくれない。素直に「好きだよ。愛してる。」なんて聞いた方がよっぽど恐ろしいのだけれど。
 愛を確かめ合う恋人達とは全く無縁に見える二人の関係に痺れを切らせたように鍋の蓋がカタカタと揺れていた。
「ほら。鍋出来たよ。」


引火
 いただきます。臨也の言葉が響いてから木霊するように青葉も同じ言葉を小さく響かせる。まだかと痺れを切らせる臨也を横目に青葉は台拭きを手にしてようやく鍋の蓋を開く。勢いを付けた湯気がようやく解放されたとばかりに逃げ出した。
 何かを要求するような臨也の視線に気づいた彼女はため息がてらに彼の器を取り上げ、鍋の具をそれによそった。どう?これで満足?とでも言わんばかりの表情でそれをドンと彼の手前に置いた。
「それで。まだ、話の途中だったんだけど。」
「ああ。あのギャグ。」
 白菜をつまんだ臨也がそれを口に運んで、まるで面白がっているようにそう尋ねた。
「こんな機会でもないと一生聞く事もないかもしれないから。」
 青葉がそう言えば彼はもう一枚白菜を摘まんで、口に運ぶ。まるで焦らしているかのように、無駄に長くその白菜が臨也の口内で噛み砕かれていく。
 そしてようやくそれを飲み込んだ彼は、ぽろりと呟くようにして言った。
「勃つモノは勃つからそれなりなんじゃないかな。」
 到底この場には、そして彼女が求めた言葉とは程遠い言葉が時折耳に届くコポコポと煮立つ鍋の音と混ざり合った。変わる筈のない鍋の味が、少しまずく感じられたような気がした。
「下品。」
「どうして。君に魅力がなければ勃たないだろ。」
「そんな下らない事を聞いてるんじゃないの。」
「下らなくなんてないだろ?…我儘な女の子だな。」
 食卓を挟んで向かい合う二人は煙のように上がっていく鍋の湯気を前に、本来の話と少しずれた会話をしていた。実に下らない、食事中には相応しくないお下劣な話を。
 それでも彼は顔色一つ変える事なく食を続ける。よくもまあ、そんな美味しそうに食べるものだと彼女が言えば「別に話の内容一つで食事の味は変わらない。」そんな最もだけれど身も蓋もない事を言ってのけた。
「別にそれは好きには繋がらないでしょ。私じゃないと勃たない訳じゃあない。」
「どうかな。久しく君以外の人とそういう事してないからな、分からないよ。」
 青葉は長年臨也と一緒に居ながらも未だ彼という男を理解しきれていなかった。何を企み、そして一体何をしたいのかなんてきっと一生かかっても理解する事はないのだろうけれど、彼が自分とこうして一緒に長い間いる事の方がもっと理解に苦しい事だった。そしてそんな自身が、どうして彼という不可解な人間と共に時間を過ごしているのかも。
「臨也の好き嫌いは勃つ勃たないの問題な訳?」
「…まあ全てがそうとは言わないけどそれだって一つの立派な理由だろ。」
「理由だとしても何か納得がいかない。」
「そう?だったら脱いでみなよ。いい証拠が見れると思うから。」
 笑う事もなく、だからといってさして真面目に言っている訳でもなく、彼の不埒な言葉だけがその場を支配していく。そもそもこの男にこんな事を聞いた自分の方がただ可笑しかったのかもしれない。気が触れていたとしか思えない。
 愛の言葉が欲しかったわけではないし、自分に対して欲情して勃って欲しかったわけでもない。ただ、本当にただの退屈凌ぎに出た言葉だった。世間様のカップルが口にするような、そんな言葉を。
「食事中に脱いで一体なんの意味があるの?」
 違う事無く、いつだって人を小馬鹿にしているかのような彼の言葉が、煮え立つ鍋の音と交差した。
「いいオカズになる。」


消化・再灯火
 結局その話しが進展する事もなく、鍋は底をついた。女の身からすれば腹立たしい程に小食な彼は お腹いっぱい とばかりにさして膨れてもいないその腹を何度か叩いて息をついた。
「まだ雑炊あるんだけど。いらないの?」
「ああ、そっか。忘れてたよ。青葉は食べる?」
「うん。食べる。」
 彼女が物欲しそうに鍋の底を見ると何処からか食いしん坊と聞こえてきた。「私は鍋よりも雑炊の方が目当てなの。」そう言って反論してはみるものの彼は一向に愉快そうなその表情を変える事もなく、少しだけ膨らみを帯びた青葉の腹を見ていた。
「妊婦みたいだ。俺の子でも孕んだ?」
「…分かってたけど最低だね。アンタ。そんなに下ネタ好きとは知らなかった。」
「俺だって男だ。嫌いなわけがないじゃないか。」
 臨也はその後ご丁寧にご馳走様と言うとそのまま黒いソファーに凭れかかった。彼女は炊飯器に入っている残飯と自分の腹の膨らみを見比べると名残惜しそうにしながらもその蓋を閉めて食卓に並んだ食器を片づけ始めた。
「雑炊食べるんじゃなかったの?」
「…気が変わったの。」
「別に少し腹が出ていようが俺は気にしないけどな。」
 彼は実に愉快そうに笑った。けれどやはり彼女はさして腹を立てる様子もなければ反論の言葉を口にすることもなく、目の前にある役目を終えた食器を丁寧に洗っていく。
 そんなどうってことない青葉の姿を彼は暫くじっと見ていたけれど、それにも飽きたのかようやくテレビのリモコンを手にした。
「おいでよ青葉。一緒にテレビ観よう。」
 彼は暫く目まぐるしくチャンネルを変えていたが、ようやく定まったのか手を止めて彼女を呼び付けた。何を間違ったのか、小動物が可愛らしくこちらを見ている彼には似つかない程の平和な画だった。
 青葉は最後の食器の水を切って彼の待つ黒いソファーに腰かける。
 さりげなく後ろから回って来る彼の冷たい手がひんやりと青葉の肩を掠めた。別になんてこともない、カップルにはよくある光景だった。
「どう?恋人気分に浸れるだろ、こういうの。」
「いまいち浸り切れない。」
「注文の多い子だね。生意気だ。」
 それはどうも。そう言う青葉の顔を彼は強引に自らの肩に傾かせた。未だかつでこれ程までに和んだ光景があっただろうかと疑う程に、そこには平和で穏やかな非日常が広がる。
「ねえ臨也。この番組、どういう趣味?似合ってないよ。」
「可愛いじゃない。何かさ。」
 二人は暫くそのままの体勢で自分たちには酷く不釣り合いなその番組を見ていた。時折臨也の長くはないその髪が頬を掠めて少しくすぐったかった。二人にはあり得る筈のない平和すぎるこの光景が、少し青葉には恐ろしく感じていた。
「なんか慣れないなこういうの。くすぐったい。」
「青葉が望んだんじゃないの?」
「うーんまあ…望んでないって訳ではないけど。」
 何だか分不相応な気がして。青葉がそう言えば彼は「君がそんな慎ましやかとは知らなかったよ。」そう返した。
「そういえば青葉には聞いてなかったな。俺の事、好き?」
 青葉は一度驚きに身を起こしたけれど、暫くすると再び臨也の肩に体を預けた。別にそれは甘えている訳でもなく、ただ仄かに生まれた暖があまりにも心地がよかったからだった。いざ同じ質問をされると困るものだな、青葉は少しはにかむようにして笑った。
「…まあ、臨也が勃っても嫌とは思わないから、それなりなんじゃないかな。」
 そう言えば彼の顔が笑う。そして、彼女はこの先彼の口からどんな言葉が紡がれるのかをまた、知っているのである。

「君は俺を勃たせるのが得意らしい。」

ともしびを再灯火
( 20110319 )