アメリカの匂いがする。 国は違っても世界は地球という球体で繋がっているのに、その国ごとにいろんな特性がある。五感の中でも主に視覚と嗅覚がその国々の特徴を物語っている。かく言う私も二カ国しか知らないけれど、確実に日本では味わう事のできない景色と、そして独特な匂いがここにはある。 私にとって約一年振りとなるその懐かしい匂いにはやる気持ちを抑えるので精一杯だ。飛行機が着陸して間も無い、まだシートベルト解除の合図も出ていないこのタイミングで既にソワソワしているのだから。 ゾロゾロと列を成している後方に並んで、ゆっくりと進んでいく。 機内から空港ロビーを繋ぐボーディング・ブリッジ、こんな気持ちで進んだ事が果たして今まであっただろうか。 小窓から見える景色は日本と違ってとても広大で、自分が今アメリカにいる事を改めて実感させられる。アメリカで過ごした半年間が蘇ったような、そんな高揚感があった。 搭乗口を出た先で真っ先に見つけたその姿に、咄嗟に言葉が出てこない。私はいつもそうだ。思った事をそのまま口にする前に考えて、そして迷子になる。 「お〜……、」 「……うん。」 宮城と会うのは半年ぶりだろうか。最後に会ったのは彼が日本に来ていたタイミングで、そして付き合う事になったあの日だ。 付き合って半年という事実がある一方で、こうして会うのが半年振りというのも不思議な感じだ。何が正解で不正解なのか、改めて分からない。半年振りの再会とアメリカという土地を最大限利用したドラマチックな展開はどうやらドラマの中でしか展開されないらしい。 私が適当な言葉を探し当てる前にかけられた宮城の言葉にすらなっていない呼びかけが全てを物語っている……私たちは思春期真っ只中の中学生か何かだろうか。中学生に怒られてしまう。 「久しぶり。」 「うん、上半身バキバキだね。」 「お前会うたびに筋肉の話してない?」 「そうかな、いやそうかも……話題変える?」 お互い好きだと言った訳でもないし、付き合ってほしいと告白をした訳でもされた訳でもない。でもお互いの関係性が確実に仲のいい友人から一歩進んだのだと確信を持てたあの日から半年。 どう接するのが正解かを掴めないままこうして再会してしまったけど、結局一言二言会話を交わしてしまえば驚く程いつも通りの私たちの会話が完成していた。 「いや、今と会ってんなって実感したとこ。」 「そうなんだ。」 「ん、だからそのまんまでいい。」 「うん。」 いつものペースに引き摺り込んだかと思えば、どっちにも取れるようなそんな宮城の言葉で完全に調子を狂わされてしまった。キャリーバッグから宮城に視線を移すと、そこには少し照れくさそうな彼の顔があったから。 私がアメリカで留学をしていた時にはまず見せないそんな顔だ。彩子と話している時に時折見せていた、あの顔に近いのかもしれない。 「荷物貸して、持つから。」 「……ありがと。」 宮城は私のキャリーバッグをゴロゴロ引いて少し前を歩く。 付き合ってから半年、最後に彼と会ってから声を聞くのはこれが二回目だ。ここ最近普及してきたネットワーク設備によって普段はメールでのやり取りが多い。その文面の中で、一度だけ時間を合わせて電話をする事になった。それが凡そ二ヶ月前の出来事だ。国際電話は想像の三倍以上高い。 「で、この後どうする?」 「取り敢えずホテルに荷物置きたいかな。」 「……は?」 あからさまに宮城の顔が歪んでいるけど、私はまた何か間違えてしまっただろうか。だとしたらどこでそうなったのか……荷物を置く前にハグが先だろとかそんな感じだろうか、そんな訳はない。 「アパートの近くにホテル取ってあるから。」 二ヶ月前、宮城から受信したメールの締めくくりにはこう記されていた。 日本時間で日曜日の十三時に電話すると。そして今、私はこうして遥々アメリカへとやって来た。メールではなく、わざわざ自らの口と声で「会いたい」と言ってくれた宮城と会うためだけに。 「……ホテル取ったんだ?」 「うん。」 「……へえ。」 再会早々変な空気になっている現状に、ぐるぐると頭を回転させている。どうやらホテルを取ったのが不正解だったらしい。 遠距離で会えないとは言ってもしっかりと宮城の彼女になった自覚は持っている。でも会えないからこそ考える事だってある。 会いたいとは言ってくれたもののそれは彼の家に泊まるという意味も含まれているのだろうか。私の知る限りで宮城の部屋のベッドはシングルベッドだったし、そもそも彼も私が泊まる事を想定していないかもしれない。 「当日は宮城の家に泊まってもいい?」なんて聞く勇気もなければ、そういう期待を持っていると思われるのも恥ずかしさしかない。 メールで宿泊についての確認をするのも急に現実的な感じがしてしまう。折角聞けたその言葉の効力が薄まるような気がして、確認する事なく結局今日を迎えてしまったという訳だ。この反応を見る限りでは、普通に確認しておくべきだった。 「……もっと計画しとけば良かったね。」 「まあ……俺も全然確認できてなかったし。」 そもそも宮城に会うためにアメリカに来たけど、これから私たちは一体何をすればいいのだろうか。何も擦り合わせをせずに夜を飛び越えてきてしまったけど、これは旅行でもあるので観光でもしておいた方ががいいのかもしれない。 「取り敢えず腹は減ってるでしょ。」 「それは間違いない。」 「じゃあ飯食うか、何食いたい?」 お腹は空いているのに、パッと食べたいものが浮かんでこない。暫く自分と相談しながら頭の中を整理していると、どこからともなく降りてきたそれをそのまま口に出していたようだ。 「宮城の作ったナポリタン。」 留学の為に渡米した初日、街中で鞄を擦られた。それを取り返してくれたのは高校時代の同級生だった宮城で、私がずっと片思いをしていた相手との再会だった。 結局現金だけを持ち逃げされたあの日、見かねた彼が自分の住むアパートに泊めてくれたアメリカでの初日。無一文の私に出されたのがナポリタンだった。それはアメリカの味というよりはよっぽど日本の庶民的な味だったこと、そんな思い出が過ぎった。 「……それ俺ん家でって事?」 ただ単に思い浮かんだものを何の考えもなくそのまま口にするのは結構なリスクなのだと、彼のその言葉で気付かされる。これではまるで宮城の部屋に行きたいと言っているようなものだ。 「……ごめん気にしないで。」 「流石に気にはするでしょ。」 「ほんと何も考えないで言っただけだから。」 「ちょっとは考えて欲しい。」 自分の浅はかな言動を撤回したい。あの時二人で行ったハンバーガーショップのハンバーガーが食べたいとか、ピザもいいなとか、今なら何だって思い浮かぶのに。どうしてよりにもよって一度しか食べた事のない宮城お手製のナポリタンの事を思い出してしまったのだろうか。不覚でしかない。 「……普通に心配になんだけど。」 「私の頭の構造について?」 「じゃなくて……他の男にもそういう事言ってないよね?」 どうしてだろうか。私は宮城と付き合っていて彼の彼女になってちゃんとその自覚だってあるのに、いざこうして正面を切って顔を合わせると不思議な感覚にふわふわしてしまう。その嫉妬と独占欲が私に向いているなんて、ちっとも信じられないから。 「発言には自覚持って欲しい。」 「は、はい……」 「じゃなきゃ日本に帰せなくなるじゃん……」 高校に入学して同じクラスになったあの時からずっと宮城の事を見てきた私にとって、今のこの状況が現実だとはあまりに信じられなくて。ずっと彩子を見ていた宮城を、私はただ見ているばかりだったから。 「俺の彼女なんでしょ?」 そんな事言われなくても、確認してくれなくても間違えようもない事実なのに。ゆらゆらと忙しく視線を泳がせながら言質を取るように、けれどもどこか不安そうな宮城はあまり見た事がなくて思わず笑いそうになる。 寸での所で口元を軽く抑えると、概ね状況を把握したのか宮城は口を尖らせながらキャリーバッグで埋まっていない左手で私の右手を強引に奪い取った。 「ご〜いんだ。」 「すぐに答えないからだろ。」 「あんなに切羽詰まった声で言われたらそりゃね?」 「……揶揄うなって。」 きちんと宮城本人の口から紡がれた受話器越しの声はすぐに思い出す事ができる。どこか余裕がなくて、けれどしっかりと気持ちの伝わるそんな声だったから。 「揶揄うならこんな遠くまで会いに来ない。」 具体的な言葉にする事は得意じゃない。だからこうしてとても遠回りな表現をして、既に強すぎる力で握られていた宮城の大きな手のひらを私も目一杯の力で握り返した。 いつだか言われた安田くんの言葉を久しぶりに思い出した。私と宮城は似ていると。間違いなく同じ気持ちでいる事はきっとお互い分かっているのにそれを言葉に出来ないところ。その癖に確証を欲しがるところ。結局はただの欲張りで、我儘なだけなのかもしれない。 「……うん。」 一度もお互い気持ちを言葉にしないまま恋人になった私たちはとても不器用で、そして多分そのタイミングをずっと見計らっている恋愛初心者だ。 結局空港近辺で昼食を済ませて、普段メールで話しきれていないお互いの近況を話していたら随分と日が傾いてしまった。バスに乗って彼のアパートの近くでホテルのチェックインを済ませてから近くにあるレストランで夕食を取る。 時間にしてきちんと数えると一緒にいた時間は決して短くはないのに、あっという間に過ぎていくので一瞬に感じられてとても名残惜しい。 「明日なにしよっか?」 「そういやまだ何も決めてなかったか。」 「折角だし行った事ないとこ行きたい。」 「留学してた時街で買い物とかした?」 「あ〜、した事ないかも。」 私たちの距離感は変わらずあの時のままだけど、少しだけこの半日で成長した事もある。一度経験してしまえば案外それは簡単なもので、こうして手を繋いで歩く事にはいちいち寿命をすり減らさなくても良くなったらしい。 「じゃあ買い物でもするか、あんま金ないけど。」 「え〜、なに買ってくれるの?」 「なんで今の文脈で買うことになってんだよ……」 こうして宮城が返してくれそうな言葉を紡ぐ事で、会話が途切れないとそう考えた。会話が続く限りは一緒にいられると思った、そんな本音を言えたらよかったのに。それが出来ない私はベラベラと会話を続けるための言葉を生産するばかりだ。 そう言えるのが一番早くて、そしてきっと正解なんだろう。もちろん言える訳がないので、心の中に留めたままだ。 「ついちゃったね、明日何時にする?」 あともう少しだけ一緒にいたいと言えなくて、本音を心の奥底にしまい込んで明日の確認する。空白の半年分の話をするだけでどんどんと時間は過ぎていって、結局アメリカに滞在する残りの期間で何をするかは決まらなかった。 「あ〜、じゃあ九時半に迎えにくる。」 「寝坊しないかな。」 「どんだけ寝るつもりだよ。」 「うそうそ、分かった。」 もう十分すぎる程話したし、今までと違って寝て起きたらまた宮城と会えるそんな明日が待っている。そもそもこうして私が宮城の彼女になった事さえ想像にも出来なかったのだから多くを望み過ぎているのかもしれない。 「おやすみ。」 十分すぎる幸せを夜の空気と一緒に目一杯吸い込んで、少し先に見えるホテルのロビーへと視線を向ける。今日は早く寝てしまおう。早く寝た分だけ、明日が早くやってくるだろうから。 「……ん?」 けれど宮城の手が一向に離してくれない。不思議に思って彼の顔を見て、彼からのおやすみの返事を聞かないまま戻ろうとしていた事に気を悪くしたのだろうかとそんな事を思いながら口を開こうとした時、綺麗にその口が塞がった。 「……おやすみ。」 塞ぐと表現するにはあまりに可愛らしい、そんなキスは半年ぶりに私の唇へと降り立っていた。 ⅱ.トワライト・グリッター |