ⅱ.トワライト・グリッター


 我ながら二日目にして時差を乗り越えた事には驚きを超えて尊敬の念を抱く。十三時間のフライトで一睡も出来なかった事がまさかこんなところで役に立つとは思わない。世の中には意図しないラッキーが隠れ潜んでいるものらしい。
 しっかりと寝たのもあってか肌の調子もいい気がする。
 アメニティーのヘアバンドを使って顔を洗うと、いつも大して力を入れている訳でもない化粧に少しばかり時間をかける。昨日の別れ際の事を思い出して、鏡に映る自分を見てあからさまな表情が映し出されていて朝から何とも言えない気持ちになった。
 普段はつけないグロスを取り出して、手の甲に二回唇を付けて艶を落とす。あまりに露骨だと、欲しがっているように見られそうな気がしたからだ。
「おはよ。」
「ちゃんと起きたんだ?」
「沢山寝ましたので。」
「ふうん?」
 メイクに気合いが入っている事に気づかれたんだろうか。もしそうならとても恥ずかしいし、今すぐにぐしゃっと落としてしまいたい。ちょうど時間が余っていたので、普段使わないくせにヘアアイロンで髪を遊ばせたのも今となってはという後の祭りでしかない。
「日本でも最近はこの化粧してるの?」
 出来れば言及されたくなかった事をあまりにストレートに聞かれて、完全にバレている事が露呈してたまらない気持ちになる。これでは私がデートをする為にオシャレをしてきた浮かれた女みたいではないか。事実そうだけど。
「髪も?」
「……えっと、」
 化粧だけでなく全てを見透かされているのだと気づいて火が出そうな勢いで恥ずかしい。寧ろもう火が出ているんじゃないだろうか……辛うじて、私の服はまだ燃えていないようだ。
「マジでそれ日本でやらないで。」
「え?」
「気狂って寝れなくなる。」
 私が張り切って化粧と髪を施した事が宮城の良質な睡眠を妨げるのであればそれは一大事でしかない。その理由を確認するよりも早く謝罪と、もうしない旨を告げようとした時、昨日と同じタイミングで私の手が飲み込まれていった。
「……俺といる時だけにしてよ。」
 このタイミングで手を繋いできたのも、その言葉も、ようやく言葉の意味を理解できてやっぱり私も恥ずかしくなる。もっとストレートでダイレクトに褒めてくれた方が分かりやすいのに。遠回りな分だけ、自分でその意味を思考して倍増した羞恥心に苛まれる。
「じゃあ明日もしてもいい?」
「……寧ろして。」  付き合うってこういう事なんだろうか。付き合って半年が経ったといっても、私たちはこんなところをうろうろしている。でもそんな初歩の段階をこれ以上ない幸せと思えるのだから、それはとても幸せな事なのかもしれない。
 残りの数日間で、この幸せに順応する事なんて出来るのだろうか。
 それもまた、幸せな悩みでしかない。



 半年留学していたのに一度も街に出たことはなくて、その一つ一つがとても煌びやかで感嘆のため息が出てしまう。
 渋谷や新宿に出た時も都会的で驚かされるけれど、これほど洗練された一つの空間として感じられる事はない。広大で近未来的な建物が並んでいる。もちろん私たちが買い物できるような街ではないと分かっていても、それでも気持ちは高揚するものだ。
「……すごい。」
「目が光ってんじゃん。」
「だってすごいもん。」
って案外ミーハー?」
「かも。」
 街で買い物と言うのでせいぜい新宿あたりを想像していたけど、そこはやはりアメリカ規格ですごいものがある。一つ一つの敷地も驚くほど広い。買うものがあるかどうかは別として、果たして一日で回り切れるだろうか。
「どこ行こうか?決めないと日が暮れちゃいそう。」
「俺行きたいとこあるんだけど。」
「そうなんだ?じゃあまずはそこ行こっか。」
 人の流れが早いこの場所では手を繋ぐ理由も正当化されるらしい。私が先にエスカレーターに乗ると、その後を追うように宮城が後ろを固める。知らなかった訳じゃないけど、改めて宮城の嫉妬というか独占欲の強さに触れて自分が彼女である自覚をさせられる。
 今までずっと自分の方向に向いていない宮城を見てきたからか、どうしてもその視線があまりにも私の方へと直線を描いているのがどこか夢見心地で擽ったくて仕方がない。
「なに買うの?」
「財布。」
「財布か、私もそろそろ買い替えないとな。」
 高校一年の時から変える事なく持ち続けていた財布は本当に指摘されるほどにボロボロだ。変えた方がいいと思いつつ、明確に財布を買おうと思い立ったことは一度もなかった。自分の趣味じゃない色をした長財布は今も辛うじて健在だ。
「財布変えると運気上がるらしい。」
「運気あげたいんだ?」
「まあ金運とかはアレだけど運が上がって損はないっしょ?」
「色んな運があるもんね、一つでも上がれば万々歳。」
「俺も中々買い物来る事ないからちょうどいいじゃん。」
 そう言いながら宮城が目星をつけていたらしい皮を取り扱った専門店に足を踏み入れる。自分が持っている黒ずんだピンク色の財布と比較しても大人びていて、そしてシンプルだ。自分の趣味ではないこの財布を見て、もうそこに拘る必要もないのにとそう思う。
「こういうの好き?」
「ん?」
「ピンクってっぽくないじゃん。」
「あ〜、これ?」
 鞄から財布を取り出して、そして確認するように見せると「そう」と宮城の口が呟いた。私自身そう思う。私はそもそも自発的にピンクを選ぶような人間でもないし、人生でこれだけ長く財布を使い続けた事もない。
 高校生の時、とても親しい友人だった宮城と妹の誕生日プレゼントを選びに藤沢のデパートへと出かけた事があった。最終的に二つの財布で迷っていたので、私が一つを買うことにしたのが今のこの財布だ。
「本当はこういうの好きでしょ?」
「……よく知ってるね。」
「だってと俺の感性って似てるから。」
 そう言った宮城は色違いのその皮の財布を手に取って会計へと向かう。まさかこの件で自分用の財布を二つ買う事はないだろうし、だとしたら確実に昨日私が言ったように買ってくれようとしているのだろう。
「昨日のアレ冗談だから大丈夫だって!」
「関係ないって。」
「全然関係あるよ。」
「俺がお揃いにしたいってだけだから関係ないだろ?」
 それだけ言い放った宮城は、私の答えを聞く事なく結局会計を進めていく。待ったところで私の返事なんていつまで経っても出てこないだろうからある意味では正しいのかもしれない。どうしてこんなにもピンポイントで、私の心を刺して来るのだろうか。
「それはアンナの好みで選んだやつ。」
「………」
の好みで選ぶとこれになったし、」
 そう言って、私に色違いの新しい財布を手渡した。確実に私の好みを捉えている、シンプルながらもちゃんと存在感のあるチャームが光っているそんな財布だ。まさかこうして彼からの贈り物として手に取るとは夢にも思っていなかった。
「ちなみに俺の好みと一緒って事。」
 普段あまり笑わない宮城の笑顔が好きだった。それは高校に入ってからずっと見ていた顔で、けれど私に向けたものではなく彩子に向けられたものだった。それでも、好きだった。
 そんな笑みとは違って、今まで見た事がない程に明るくてカラッとした満面の笑みがそこにはあった。高校時代からの付き合いの私でさえほとんど見た事のないような、そんな表情だ。
 今まで見た事のないそんな表情に、珍しく独占欲が湧いてきたのかもしれない。こんな表情を見られるのは私だけで、他の人には絶対に見せてほしくない。
「気に入んなかった?」
「ううん、まさか。」
「じゃあ何?」
「気に入りすぎてちょっと感動してる。」
 付き合っている事実は理解している筈なのに、こうして宮城との空間を五感で感じるとやっぱり夢なんじゃないかと、そんな事を考える。人生がこの半年で突然こうも私にとって風向きが良いようになっていいものなのだろうか。
「……そっか、じゃあいいじゃん。」
 私の好みのものをプレゼントしてくれたという驚愕と、初めてのお揃いという事実と、それを今まさに同じ空間で一緒に共有できているという幸福と。これ以上に望むことがあるのだろうかと、そう思える程に胸が苦しい。
「この財布が嫉妬しないかな?」
「散々世話になったからもう十分だって。」
 この財布は私と宮城の全てを見てきたと言っても過言ではない。一緒に買った時から、アメリカにきた初日もきっかけになったのはこの財布だった。宮城と引き合わせてくれる役割はもう十分に果たしてくれたのだから彼の言うとおりなのかもしれない。
「……それに、」
「ん?」
「プレゼント成功しないと俺がダッセェじゃん。」
 持たれることが少なくなるであろう、ある意味で宮城が選んだもう一つの財布をしっかりと握りしめた。ボロボロになるまで使い込んだ私の好みではなかったこの財布が、改めてこんなにも愛おしいものだったのだと今になってそう思う。
 新しい幸せは、過去の幸せをも想起させる。



 都市部の喧騒から少し離れて、昨日見慣れた景色が広がって現実に戻ったのだとそんな事を思う。まるで魔法にかかったかのような幸せな時間はあっという間に過ぎ去っていくものだ。
「今日は晩御飯何食べよっか?」
「ん〜?」
 すぐに答えは返ってくると思っていた。ハンバーガーか、ピザか、ステーキか……アメリカは多国籍な国だけど一方でメジャーな料理は結構決まっている。その中からあ〜でもない、こ〜でもないと一緒に選ぼうと思っていたのに宮城の返事にキレの良さはない。
「ハンバーガー、ピザ、ステーキどれがいいかな?あとはロブスターとかもあるかな?」
 そのどれにも食いついてこなくて、お腹が空いていないのだろうかと改めて時計を見てみる。時刻は既に十九時をすぎている。昼食をとってから既に七時間以上が経っているので、確実にお腹は空いているはずだ。
「宮城きいてる?」
「……あ〜、うん。」
 何だか時間を稼がれているような気がして、喋るのをやめてみる。もしかすると彼も話したい事があるのかもしれない、昨日の私のように。
「ナポリタン食べない?」
 昨日私が言ったその料理。ナポリタンと横文字でありながらその実は日本で生まれた料理らしい。つまりアメリカでナポリタンを食べられる場所なんてもちろん限られていて、昨日の会話を思い出してその意味を理解してしまった。
「……今朝ちゃんと材料買ってきたから。」
 昨日唐突に宮城の作ったナポリタンが食べたいと言った私にはそれを断る理由もない。昨日解散してから朝早く起きてスーパーに材料を買いに行った彼の事を思うと、より一層断る理由が見つからなかった。
「それって宮城の手作りで?」
「……そう。」
 繋がれていた手が、指を絡ませるように密着していく。ぞくぞくと今までに感じた事のない、許容量を超えた幸に支配されていく。
「……食べようかな。」
「……そっか。」
 宿泊予定のホテルを通り過ぎて五分も経つと宮城のいつかに一度だけ来た事のあるアパートが見えてくる。上がっていく階段のその一段ずつに心の緊張が増していくようで、言葉数が少なくなる。
 ポケットの中から銀色に輝く鍵を取り出して、ためらう事なくガチャリと鍵を回す。すぐに開けられた扉の中に引き込まれて、そして今まで出来なかったそんな衝撃を受け止めていた。
「……宮城、」
 言い切る前にもう一度唇を塞がれる。昨日ホテルから見送る時にした触れるようなそれじゃなくて、しっかりと欲と感情を埋め込まれるような、息が詰まるようなキスだった。
「……半年待った。」
「うん、」
「ホテル取ったとか言うからどうしようかと思ったけど。」
「……うん、ごめん。」
 玄関先で彼の聞いた事もない熱量を帯びたそんな言葉を聞いて、珍しく私も自ら手を伸ばして半年分の想いを乗せた。



ⅲ.湿度をかきまぜて