ⅲ.湿度をかきまぜて


 何も計画を立てなかったのには意味がある。
 俺にしては結構ストレートに言ったつもりだった。遠距離って事もあったし、あまり頻繁には会えないと思うと言った彼女は半年後と、そう言った。だから半年待とうとして、でも全然待てなくて「会いたい」ってそう言ってアメリカまで来てもらった。
 そもそも計画を立てなかったのは、どこにも行くつもりがなかったからだ。
 外に出れば人目があるし、人目があるとこで急に恋人らしい事をするのも、自然とそんな雰囲気になる事もない気がした。だから観光とか、大々的に出かける選択肢は俺の中では生まれない。普通に、正直に、オブラートに包まずに言うと、一緒にいたい。で、沢山触りたい。
「……ん……っ……」
 多分自覚はないんだろうけど、キスしただけでそんな声を漏らされちゃ理性とも相談が難しくなるの分かってんのかな。絶対分かってないな……刺激が強すぎる。
「宮城、苦しい、」
「……ごめん、」
 結果的に今こうして俺のアパートにいるけど、そもそも会いたいって言って会いに来てくれたのに家の近くのホテル取ってるってマジで何事?どう考えても俺の家に泊まるのが普通じゃないのか。「当日なんだけどどこ泊まる?」なんてそんな確認しないと駄目だった?
「水とってくるから適当に座ってて。」
「……う、うん。」
 水取ってくるって言ったけど何で水取ろうとしてるんだっけ。そもそも水欲しいの俺なんじゃないのか。キスしてそのままガッつきそうになった自分を一旦沈めるために必要なだけで、別に彼女に必要な訳じゃないのに。
「飲む?」
「あ、飲みたい。」
「はい。」
「ありがと。」
 彼女はペットボトルの蓋を開けると、くつくつと喉を鳴らしながらミネラルウォーターで喉を潤していく。そんなつもりなんて微塵もないだろうけど、ごくごくと水を飲み干していくその姿がどうしようもなく色っぽく見えて……俺の目どうかしてんのかな。
「もう一回キスしてもいい?」
 気づいた時には本音でしかないそんな事を紡いでいて、ついさっきまで随分と自分の欲望と相談した上で収めていたのが嘘のように全て曝け出されていく。
「……そんなの確認しないでよ。」
「……ごめん。」
 確認しないと独りよがりになってるような気がして、どうしても確認せずにはいられなかった。自分と同じ気持ちでいるんだろうか。そんな事分かっている筈なのに、なんとなく確証がないと怖い気がする。日本に帰ったままもう二度と会えない、そんな事になったらなんて最悪の事態ばっかり浮かび上がってくるから……自分の性格が面倒で嫌になる。
「してもいいって事だよね?」
「……うん。」
 本当はそんな確認してる暇があればその時間も触れたいのに、結局臆病な俺は確認しないとそれが出来ない。
 半年前、付き合う事になった時には出来なかったちょっとだけ深いやつ。翌日帰国する状況の中でそれをする勇気はなかった。帰れなくなる気がしていたからだ。
 でもそれは間違いじゃなくて、こうして一度し始めると独占欲が音を立てるようにメキメキと浮かび上がって手放せなくなる。
「……ん…、宮城……」
「ん?」
「………もっと、」
 また止められるかと思っていたら、今度は想定していない言葉が聞こえる。ぷつんと何かが切れる音が聞こえて、暴走しそうになる自分を一回死ぬ気の思いで落ち着かせるのに必死だ。
 要望通りもっと、を叶えることなんて簡単だけどそのもっとが何処までを指してるのか測りきれなくてどうしようもない気持ちになった。
「んっ………」
 吸い付くように唇を貪ってたら自然と押し倒す感じになっていて、彼女が体勢を崩したタイミングでベッドボードに置いてあった箱がコロンと床に転げ落ちた。
「ん?」
 完全に買ってきてそのまま忘れてた。普通にホテルじゃなくて俺の家に泊まると思ってたから、万が一何かあっても大丈夫なように買い置きしてたけど……まさかこんな形でしっかりと認識される事になるなんて夢にも思ってなかった。
 言葉を失ってる感じじゃないけど、普通に何て言うべきかは迷ってる感じだ。この状況って普通に考えて最悪って言うと思うんだけど実際の所どうですか。
「……えっとさ、」
「……なに、」
「間違ってたらごめんだけど……もしかしてそういう期待、してた?」
 完全にその箱の中に何が入ってるかは分かってる言葉だ。高校時代一番近くにいた人間は俺だって自負はあるから誰かと付き合ってたとかはないと思うけど、それだって確認した訳じゃない。でも箱の中身知ってるって事はした事ある?いや、今の時代普通に保健体育でも現物見せたりするから考えが安易すぎるか。
「……してない訳じゃない。」
「………」
「でもそれが目的って訳じゃないから。」
 自分が何のために家に呼んだのかをもう一度思い出して、そして冷静になった。ナポリタン食いたいって言ったから連れてきたんだ。その事自体に他意はないし、何なら俺が作った料理覚えてくれてたのはすごく嬉しかった。
「と、とにかくナポリタン作るから。」
「うん。」
「色々思うとこあるかもしれないけど……嫌じゃなければ今日泊まっていかない?」
 下心がないと言えば嘘になるけど、純粋に一緒にいたい。付き合ってる事実があっても、年に数回しか会えないし電話だって気軽に出来ない。あと何年この状況が続くのかだって分からない……一分一秒たりとも無駄にはしたくなかった。
「ナポリタン食べながら考えて欲しい。」
 結局その後食べたナポリタンは、あんまり味がしなかった気がする。



 二十三時を回った頃、電気を消してベッドに転がる。いつもよりベッドが狭い。
 目を瞑って眠ろうとすると余計に眠れなくて、十分毎に時計を見て、時間が過ぎていくのを途方もなく感じていた。眠れそうな気配なんて微塵もない。自分から泊まらないかと言った手前完全なる自業自得でしかない。心臓の音が煩くて眠れる気がしない。
「宮城起きてるんでしょ?」
 背中を向けている先から彼女の声がして、ビクッと体が跳ねてしまった。めちゃくちゃカッコ悪い。
「……そっちも。」
「うん、さっきの事全然頭から抜けなくって。」
 こういう時、男よりも女の人の方がよっぽど大人だと思う。どう思われるのかとか、カッコ悪いとこ見せたくないとか、結局俺はそんな自尊心を働かせてしまうから。彼女の言葉はとても真っ直ぐで、ダイレクトに心へ届く。
「ひとつ確認しておきたいんだけど……、」
 普段あまり感情を出さないにしては珍しい。暗闇の中でうっすらとしか見えてはいないけど、視線がどこか宙をふわふわ彷徨っているようで、定まっていない。完全に動揺が見て取れる姿だ。
「分かってるとは思うけど……」
「なに、」
「私その……、初めてだから何かと面倒かもしれ、ない。」
 高校時代から知っているに彼氏らしき存在がいなかったのは分かっていたし、多分俺が初めての彼氏だって自覚はあった。
 した事があるのかないのか、そんな事をさっき考えたばかりなのにそれが“はじめて”かもしれない、そんな考えには何故か直結しなくて。考えてみれば当然の事なのに、それが初めてと言われるとドーンと金槌で頭を叩かれたような衝撃があった。
「面倒とか言うなよ。」
 一瞬感情がぐしゃぐしゃになって呆けてたけど、冷静になって改めてその喜びを噛み締めるしかなくて。自分から泊まっていけばいいと言い出した手前、彼女に安心してもらうためにも今日は絶対に手を出したら駄目だって自制していたのに。
「……俺が初めてとか嬉しいに決まってる。」
 本当に分かってんのかな。面倒くさいと思う要素なんて一ミリもなくて、ただただ愛おしさが募っていく。しっかりと自分と相談して今日は何もしないと決めていたのに、不安そうな顔でわざわざそれを告げてきた彼女があまりにも愛おしくて。
「……ほんと?」
「嘘つく訳ないじゃん。」
「そ、か。」
 手を伸ばすと、きゅっと固く目を閉じた。そんなの無理かもしれないけど、少しでも安心させたくて手を握って、固く閉ざされた瞼にキスをするとゆっくりと彼女のくりっとした黒目がちな瞳が映り込む。
「……好き。」
 高校一年の時から一番近くにいたのはだった。その中で俺は好きな人を見つけて、ずっと彼女だけを見てきた。今こんなにも俺を虜にしているのはでしかないのに、どうしてそれに気づかなかったんだろう。今にして思うと不思議でしかない。
「……うん、」
は?」
「え〜、」
「え〜、じゃない。」
 アメリカの空港で再会した時よりも、日本で再会した時よりも、記憶の中にあるどの思い出よりも感情が加速する。遠距離をしている分、会った時のインパクトってすごいのかもしれない。どうしても会いたくて、我慢できなくてアメリカに来て欲しいって言ったけど、会ったら会ったでイメージしたように触れる事も、上手くいかないもどかしさに震えそうになる。
「……触ってもいい?」
 返事を聞く前にたまらなくなって抱き寄せた。今までも人を好きになった事はあった。でも、こんなにも人を愛おしいと思った事はない。どう表現するのが適切かわからなくて、でもどうしようもなく満たされていて。満たされているのに、体が反応するように心臓が呼応してぎゅっとなって苦しい。
「……うん、」
 それが合図だったように、自分の感情を留められなくなった。貪るように啄んだ彼女の唇からは、ほんのりと僅かに甘い味がしたような気がした。俺の知らない味を味わう為に、そんな理由をつけてその奥へと沈み込ませていく。
「……震えてる、」
「怖いもん。」
「どうしたら怖くない?」
 これから何をするのかお互い認識しているからこそ、どうにかして恐怖心を拭たくて。どう立ち回ったとしてもきっと彼女にとっては怖いだろうと思う。でも、もうこの感情を止めることなんてできそうもない。
「……キス、」
 日本で彼女に告白した時には出来なかった事だ。翌日アメリカに帰ることを考えると、あまりに名残惜しくて出来なかった。でも今はそんな遠慮も必要なくて、しっかりと俺の彼女な訳で。
 元々甘え下手な彼女からのその言葉はあまりに刺激が強く、いろんなところに効く。もっと早くに言ってくれたらよかったのにと思いながらも、震える彼女の腕を抱き直してしっかりとその愛おしさを感じてみる。
「……して欲しい。」
 その言葉によって自分の中でいろんな事が進んでいって、しっかりと彼女の吐息を感じながら、自分の感情を押し付けていく。
「宮城、」
「ん?」
「………好き。」
 多分そう思ってくれてるんだろうって事は分かってた。そうじゃなきゃこんなに遠距離になるのを分かってて付き合う結論にはなってなかっただろうと思う。でも普段からこうして言語化して伝えてくれるタイプでもない分、めちゃくちゃ効く。
「俺も。」
「……うん。」
 どうしたら大事にしてることが伝わるんだろう。どうしようもなく好きで、自分の欲望に打ち勝てなくて、どうしたら彼女にとってもいい思い出になるんだろうか。
「期待してない訳じゃないって言ったけど………」
 自制心はある方だと思っていた。でも実際はそんな事はなくて、彼女を前にするとしてみたい事が渦巻いて永遠に出てくる。優しくしたいとか、丁寧にしたいとか、そういう事以前に彼女に触りたい。そんな感情があまりにも大きすぎて、もうどうする事もできなかった。
「やっぱり、欲しい。」
 自分の感情をそのまま言う事には抵抗しか無かったはずなのに、それでも今は驚くほど感情のままに言葉が口から出ていた。それが、本当の気持ちだったからだ。
 この世で一番、愛おしい。
「……うん。」
 止まりかけた時計は、再び時間を刻み始めた。



ⅳ.不透明な欲張り