ⅵ.偏愛レトリック


 今目の前の光景を誰が信じられるというのだろうか。少なくとも私はまるっきり信じていない。信じていないけど、それがしっかりと視界に入り込んでくるのでこれは夢か何かに違いないとそう思うことにしてやり過ごしている。そうでもしないと、ちょっと付き合いきれない。
「どこ行くんだよ。」
 昼下がり、私たちは少し遅めの昼食を取った。今日は宮城お手製の卵サンドが出てきて、二人で食べる。それが終わるとソファーのない彼の家では概ねベッドの上をソファー代わりにするしかなくて、無条件に距離が近い。
「あの……いちいち聞かないでくれる?」
 無条件に近い、というよりはもう近いどころの騒ぎじゃない。私の後ろに回り込むと後ろからすっぽりと私を包み込んで、私の肩からひょっこり顔を出してテレビを見ている。
「で、どこ?」
「………話聞いてますか。」
「心配じゃん。」
「あのねえ……逃亡する訳じゃないし、普通にトイレ。」
 随分な豹変ぶりだ。
 手を繋ぐのにも随分と時間を要していたし、キスをするにも口実がないと出来ないような昨日までの宮城とはまるきり別人でしかない。惜しむ事は愚か恥じる事もなく定期的に耳元近くの宮城の口が私への囁きを告げている。
「……前例あるだろ。」
「前例?」
「黙って日本に帰ろうとしただろ、一年前。」
「あ〜………あれはもう時効でしょ。」
 意図的だったのか、結果的に偶然だったのか。そのいずれでもあるような気がしてならないけど、付き合って約半年が経って関係性が一つ先に進んだ。関係性が変わった訳じゃない。ただ少し前に進んだだけで、私たちは昨日までと何ら変わらない……そう思っていたのは、どうやら私だけだったらしい。
「逃げたりなんてしないから!そろそろ離してって……」
「は?なに、嫌なの?」
「嫌とかそういうんじゃなくって……」
「じゃあいいじゃん、も俺の事好きなんでしょ?」
「…………」
 初心でどこか可愛げのあった宮城は一体この半日足らずでどこへ出かけてしまったのだろうか。留守番中の宮城は随分と積極的で、一皮剥けたように冷静だ。冷静にベッタリと甘えてこられると、こちらが落ち着かない。
「昨日いっぱい言ってくれたじゃん、好きって。」
「ねえ……!」
「なんだよ。」
「そういうの真っ昼間に言わないでもらえます?」
 昨日、最初に二人でベッドに転がって眠ろうとした時。私に背中を向けるようにして少し丸くなっていた彼の姿を思い出す。結果的にはしっかり顔を合わせながら眠った訳だけど。昨日の時点で、やっぱり人格が変わっていたのかもしれない。
「朝も言ってくれたじゃん。」
「……だ、だから!」
 目が覚めたのは、体の右側にひんやりとした感覚を覚えたからだ。ゆっくりと目を開くと、右側だけ不自然にぽっかりと隙間が空いている。ここが日本ではなくアメリカである事を思い出して、そしてこの空間が宮城の部屋だという事もしっかりと思い出した。
 相変わらずシャワールームの壁の作りが薄いらしく、ベッドの右側にいた人物が今シャワーを浴びているところまでは認識が出来た。
 昨夜の事を思い出して、まだ寝ぼけていた筈の体が熱を持ったように熱くなる。その一つ一つが鮮明に思い出されて、どうしようもない気持ちになった。今までも別に疑念を持っていた訳じゃないけど、どうやら私はちゃんと宮城の彼女で、そしてしっかりと大切にされているらしい。
 髪が下りているだけで随分と幼くなるその表情が特別な気がして、シャワールームから出てきた宮城を見て朝から心臓が煩い。おはよう、そう言ってきたかと思えば昨日までの事が嘘のようにおはようの挨拶とキスが口元に乗っかってくる………箱の中身は、昨夜からまた一つ数を減らしていた。
 そして、話はようやく現在へと軸が戻る。
「夕方になったらホテル戻るとか言うつもりだろ。」
「……そりゃ予約してありますから。」
「アメリカ来たのって俺と会うためでしょ?ならホテルなんて泊まる必要ないと思うんだけど、冷静に考えて。」
 その考えがなかった訳じゃない。寧ろ、最初はそうするつもりでいたのだから。考えているうちにどんどん恥ずかしくなって、そして自分がまるで何かを期待しているような気がして急遽ホテルを取る事にしたのだ。
「昨日も無断でこっち来ちゃったし……」
「全然答えになってないんだけど。」
「……いつからそんな強火な感じになりました?」
 昨日までと打って変わって随分と強気な宮城は動じる事なくこちらをジトっとした目で見ている。付き合ってまだ半年、そして遠距離。そんな足枷があっても私たちには一緒に過ごしてきた長い時間がある。つまり、彼は私の事をよく知っているという事だ。
 私が何も告げる事なく突然いなくなった過去の事実もそれを手伝っているのか、とにかく私が傍を離れようとするとさっきからこの顔だ。疑われても仕方のない事はしたけど、本当にトイレに行きたいだけなので困る。
「時間は無限じゃねえの、有限なの!強火にもなるっての。」
「……そんな死に急がなくても。」
「一分一秒惜しめよ。」
 一眠りしただけでこうまで人は変わるのだろうか。初心な昨日までの宮城が最早ちょっとだけ恋しい。独占欲の塊のような目をしている……どんな目だろうか。兎に角圧が強い。
「六千三百三マイル離れてても、声が聞けなくても、半年会えなくても生きてく為に今全力で吸収しとく。」
「吸収……」
「そ、吸収。」
 壊れ物を扱うように優しく丁寧に、時々不安げな顔をしていたのが嘘のようだ。そこには恥じらいの『は』の字も存在しない。若干目も据わっている気がしてならない。
「俺がキャンセル料払うから。」
「……そういう訳にも、」
「ちなみにこれ相談じゃなくて絶対だから。」
「そんな無茶な……」
 結局宮城はその後本当にホテルへ電話をかけると、腹立たしいほどに流暢な英語でキャンセルの申し出をし始める。半年アメリカで留学をしていた耳を最大限すまして聞いていると、どうやら交渉までしているようだ。キャンセル料を払うとは言ったものの、出来れば払いたくないのが本音だろう。
 交渉の結果、満室のホテルでキャンセル待ちがあるという状況に、キャンセル料不要であと数日あった宿泊予定は無くなった。英語力だけでなくいつの間にこんな交渉術を身につけていたんだろうか。
「キャリーバッグこれから取りに行ってくる。」
「じゃあ私も、」
 当然のように立ちあがると、何故か宮城が私の肩を持って座らせるようにベッドのスプリングを揺らした。私の荷物を取りに行くと言うので立ち上がったまでだが、何かおかしかっただろうか。
「俺一人で行ってくる。」
「でも私の荷物だし、」
「いいから!」
頑なだ。それに何だか少しだけ余裕がなさそうな気がする。今朝起きてから視界に映る宮城はずっと余裕綽々であっけらかんとしていたのに、何故荷物を取りに行く事に対してこうまでムキになっているのだろうか。
「……いや、流石にちょっと意味わかんない。」
 今度は急に不貞腐れているのか、はたまたばつが悪いのか、今まで逸らしてもいつまでもついてきていた視線がふわりと宙を彷徨ってあらぬ方向へと向かっている。今日の宮城は色々とおかしいし、何だか忙しそうだ。
「首、」
「………首?」
「痕ついてる。」
「え?」
 痕と言われてもまるでピンとこなくて、はてさて蚊にでも食われただろうか。今のところお陰様でまだ痛くも痒くもないが、それともこの部屋にはダニでもいるのだろうか。まだ宮城の目線はこちらに帰還しない。
 男の一人暮らし先に大きな鏡なんて気の利いたものがある筈もなくて、一度リモコンでテレビを消してから首もとを確認するように覗き込む。
「えっと………」
「………」
「なにしてくれてるの?」
「いいだろ、別に。」
「よくないでしょ、出かけられないじゃん!」
「なら出かけんなし。」
 その言葉で事の真意に辿り着いてしまった。これは意図的につけられたもので、悪意のある言い方をすればわざとそうしたに違いない。いまだに帰還しない宮城の視線は多分、否間違いなくそういう事だろう。
「陰湿で悪質すぎない?」
「……なんとでも言えよ。」
「こっちで友達いないでしょ?」
「別にいらねえし。」
「強がり。」
「俺は彼女だけで十分なタイプなんだよ!」
 なにを言い返してくるだろうか、そんな気構えをして待っていたのに想像しても見なかった言葉が返ってきた。そんな事を言われてしまうと私が返事に困るのを分かっているはずなのに。言った本人も打って変わって恥ずかしそうにしてるものだから、余計に言葉は見つからない。
「……一緒にいる時くらい独占させてよ。」
 ぼそっと呟くようにして言ったその一言が昨日までの宮城を見ているようで、何だか急におかしくなった。あまりのギャップにくすっと笑うと口先が尖るように不機嫌さを開示している。気に食わない時の顔だ。
「これ以上どうやって独占するの?」
「……馬鹿にしてるんだろ。」
「そんな事ないけど、独占欲の塊だなとは思った。」
 そう言うと何かを諦めたのか、それとも開き直ったのか、再び宮城が私を座らせたベッドの隣にドン!と座り込んでスプリングを大きく揺らした。どうするのか見ていれば、少しの間をおいてコトンと宮城のセットされていない柔らかい猫っ毛が私の首元に落ちてきた。
「年に数回しか会えねえのにさ、今以外いつ独占しろってんだよ……」
 猫が甘えてくるように、私の内側に入り込んで擦り付けるように顔を埋める。多分昨日までの宮城にはできない甘え方だ。
 不思議と私にももう恥じらうような気持ちはあまりなくて、いつもしていたような感覚で宮城の髪を撫でていく。上から下へ、もう一度上から下へ……何度か繰り返しているうちに本物の猫のようにすりすりと擦り寄ってくる。
「どう、独占できた?」
「はあ〜〜、」
「え、なに。」
「足んない………全然、足んない。」
 そう言ってから、足りない差分を回収するようにふわっと宮城の唇が触れるようなキスを落とした。少しばかり気構えしていた分、私も何だか不思議で目をぱちぱちさせながら彼の方を見る。
「足りました?」
「足んねえけど……我慢できなくなる。」
 言葉の意味が分かってしまって、再び私の口はだんまりを決め込むことになる。この半日足らずで宮城は私を困らせる天才になったんだと、そう思う。心臓が苦しい、胸が痛い……それらが恋をする事、そして心がときめきを覚える事と同じ感覚だとは知らなかった。
 宮城に一方通行の恋をしたあの長い時間がゆっくりと昇華していくような、なんとも言えない多幸感と相反する苦しさでいっぱいになる。人は幸せでも苦しくなるらしい。
「取り敢えずホテルに荷物取ってくる。」
「うん。」
「ついでに買い物もしてくるけどなんか欲しいもんある?」
「欲しいものっていうか……ナポリタン食べたいな。」
「昨日食ったじゃん。」
「緊張してたから全然味しなかった。」
「……実は俺も、」
 自分だけが余裕なくずっとドキドキと胸を高鳴らせていたのかと思えば、どうやらそうではないらしい。それを知る事ができただけでも、わざわざ言う必要のない本音を吐き出した価値はある。少なくとも、キスを一回余分にしてもらう理由にはなったから。
「じゃあ行ってくる。」
 キャップを被り財布をポケットに突っ込んだ宮城はゆっくりと玄関へと進んでいく。
 ホテルまでの道のりはそこまで遠くはないけれど、買い物をするとなれば一時間近くはかかるだろうか。それまでの時間、なにをして暇を潰そうか。ちょうどそんな事を考えていた時、足音が再びこちらへと戻ってきた。
「な、なに?」
「……出来れば昼寝しておいて。」
「昼寝?なに突然……」
 私が外出できない理由を作ったのは一旦別としても、そもそも自分のものを取りに行かせてその間ぐうぐう眠れるほど図々しくはない。いくら恋人の家とは言っても、中々の異空間だ。部屋は整頓されているけれどしっかりと男の人の部屋だし、何より宮城の香水の匂いが充満していて時々胸が張り裂けそうになる。
「今のまんまじゃ夜まで持たないでしょ……多分、」
「…………」
「とにかく!寝れるなら寝といて。」
 はい、いいえ、そのどちらも言葉には出来ない。いいえと言えば確実に詰められるのが目に見えていて、はいと言うのはあまりに恥ずかしすぎる。まだ私にはその勇気はないし、宮城のように一晩寝て起きただけで人格を変える事は出来ない。
のその顔さ、」
「その顔?」
「なんか余裕なさそうな顔。」
「そんな顔してました……?」
「うん。」
 余裕がないどころか心がぐわんぐわんとあっちへ行き、こっちへ行き、ジェットコースターのように忙しいこの現状。それが筒抜けになっている事を改めて自分以外の誰かから聞くのはその状況を悪化させる。
「高校ん時とか、こっちいた時でも見た事ないから……なんか特別で好き。」
 やっぱり宮城はこの半日足らずで本当に変わったのかもしれない。なんの躊躇いもなく、こうして彼自身の感情をきちんと言語化してくれる。きちんと言葉にする事の意味の大きさを感じさせられたような気がした。
「俺にしか見せない顔なのかなとか、」
「……言ってて恥ずかしくない?」
「恥ずいけど……でも今は言いたい気分なんだよ。」
 その言葉に続くように、短くわざとらしく音を鳴らす。まるで覚えてばかりの何かを披露するかのように。一体いつになればこの状況に、私の気持ちと体は追いついてくるのだろうか。次会う時までに追いついていればいいなと思いながらも、きっと無理な事なんて今の時点で分かっている。
が俺の彼女なんだなって実感してるとこ。」
 そんな事想像しなくても安易に答えが出ているのだ。きっと無理というのは、この苦しいほどの多幸感に溺れ、そしてそれを知ってしまった私がまた半年待てるかどうかという事なのだから。
 宮城が一方的に愛情表現をしているように見える一方で、結局私はこの男に勝てないのだと思う。いつの時代も私の心を動かし、そして掻き乱すのは宮城だけだから。私が唯一恋をした人で、きっとこれからもそれは変わらないだろう。結局私が誰よりも彼に惚れている、それが証明されただけの事だ。
「……彼女じゃないと困るんですけど。」
「超彼女だろ。」
「超彼女ねえ……」
 きっとこうして会う度に私は彼に恋をして、そして好きを深めていくのだろう。何年も費やした一方通行の矢印が自分の方を向くとは夢にも思わなかった半年前、今はそんな自分が少しだけ懐かしく思えた。
「おやすみ、宮城。」
 この物語だけは終わらせたくない。終わりのない物語を、今この瞬間から始めていく覚悟を持って、広い背中を見送りながら私はゆっくりと目を閉じた。
 今日のナポリタンは間違いなく美味しいだろう。そう、確信していた。



ⅶ.酒は百薬の長