姉が結婚する。 若干まだ二十三歳で、だ。私はまだ二十歳だけど、あと三年経ったら姉のように結婚をしているだろうか。あと三年のうちに就職先を探して大学を卒業するだけでも大変なのに、その間に恋愛をしないと結婚に至ることはない。まだ一度も恋すらした事がない私に、そもそもそれはできるんだろうか。 「リョータ早くこれとめてよ。」 「それコーヒーとどっちが先?」 「どっちも先。」 土曜日の午前十時半、私の部屋にリョータはいた。部活は午後かららしいので私が彼を部屋に呼び寄せた。 普段しない事というのはすなわち慣れない事をするという訳で、今私は久しぶりにジュエリーボックスを開き、華奢なネックレスを手に取り格闘中だ。何度か自分で付けてみようと試みたもののネックレスが首元で安定する気配はない。こういう時、一人暮らし先ですぐに手を借りられる存在は結構貴重だったりする。 「てかネックレスくらい自分でつけなよ?」 「普段つけないからしょうがないじゃん。」 「女子力。」 「なに?」 リョータは私の髪を束ねて自分の腕に乗っけると器用な手つきでネックレスを付けてくれる。その深爪すぎる指でどうやってつけてるんだろうか。ハイおわり、肩を叩かれて鏡に映っていたリョータが消えた。台所の方をちらりと見ると、マグカップにケトルからお湯を注いでいる。私が化粧をしている間に頼んだコーヒーを作ってくれているらしい。 普段最低限の化粧しかしないので、これだけ時間をかけて自分を仕上げていくのは久しぶりだった。美容室で髪もメイクも頼むつもりでいたのをすっかり忘れていて、昨日の夜に思い出して何軒か確認したけれどどこも予約は取れなかった。 「コテなんて持ってたんだ?」 「うん、一応ね。ほとんど使ってないけど。」 「ふうん。」 リョータが再び鏡に映り込んで、こつんとテーブルを鳴らしてコーヒーを運んでくれる。この間のピザにしてもそうだけど、リョータは色んなものを運んでくれている気がする。何だかんだリョータは優しい。というより、とても優しい。そんな事は十七の頃から知っているけれど。 「まつ毛バサバサだ。」 「もうちょっとマシな言い方なかった?」 「いいじゃん褒めてんだから。」 「それ褒め言葉なの?」 鏡に映る自分を私自身なんだか不思議な気持ちで眺めている。きちんと化粧をすれば目は二倍にはならなくとも結構大きくなるものらしい。アイラインも気持ちいつもより濃く太く引いたからなのかもしれないけど。 コテのスイッチをオンにして、百八十度になるまで待っている間に化粧ポーチの中を漁る。いつ買ったのか俄かに思い出せないルージュが二本、入っていた。蓋を外してくるくると捻ると少し大人っぽい紅いルージュと、肌馴染みの良さそうなピンクのルージュが顔を覗かせた。 「どっちがいいかな。」 「ん?」 「紅と、ピンク。」 「イメージはピンクじゃん?」 「やっぱりそうだよね。」 ピンクにしようと思っていた私は、最終確認の意味でいつものようにリョータに尋ねる。リョータが言うのであればきっと間違いはないという自信があるからだ。きっとリョータとは感性が似ているんだと思う。ひとりでいる時とほとんど同じ感覚で彼とは一緒にいられるから不思議だ。 「だけと今日の感じだったら………」 ひと口だけマグカップのコーヒーに口をつけたリョータは「あち」とそう言ったあと、カップを置いてこちらに近づいてくる。私が左手に持っていた紅いルージュを奪い去って、そして少し遠目に翳しながら何かを見ているようだった。 声に出す事なくうんうんと二度頷いて、そのルージュを私の唇に乗せてくる。突然なにを!と声が出そうになったけれど今動いてしまってははみ出てしまう。ぐっと言葉を飲み込んで為されるがままにそれが終わるのを待った。 「うん、やっぱりこっちで正解だわ。」 突然なにを言い始めるのかとあからさまに首を傾ければ、肩をグッと両手で掴まれて正面の鏡の方を向かされる。そこに映っている自分は、なんとなくイメージしていた感じとは違っていて。大人っぽい紅いルージュは、黒いドレスにとてもよく映えて見えた。 「見てみ?」 「…お〜。」 「なにその反応。」 「いや、まじでスタイリストなの?」 「俺センスあるから。」 「流石に調子乗りすぎでしょ。」 紅いルージュを選んだという意外性とそれをリョータに塗られるという想像外の出来事と。突然のことで理解が追いついていなかった心臓が突然脈を打ち始めたようにうるさかった。その一連の作業があまりに自然すぎて気づかなかったけれど、結構すごい事をされたんだと思う。当の本人に、その意識はあるんだろうか。 鼓動を落ち着つかせる為にコーヒーを啜る。ピピっと音がなって視線を移すとコテが百八十度にまで達したのだと教えてくれていた。手にとって慣れない手つきで髪を挟んで、ゆるく巻いていく。 「うしろ。」 「ん?」 「巻けてないとこある。」 「え、どこ?」 さっきと同じように、今度はリョータにコテを奪われて後ろの見えない部分を彼が補ってくれる。「これムズ!」そう言いながらもさっきの私の仕草を見よう見真似で、やっぱり器用にくるくると巻いていく。 「ん、綺麗じゃん。」 コテをおいたリョータは鏡越しに私の姿を確認して、恥ずかしげもなくそう言った。彩子の前では些細なことでも一喜一憂して常に余裕がないくせに。こうも余裕を持って言われるのは色んな意味でしんどい。嬉しいという気持ちと、そしてやっぱり彩子が彼にとっての特別なんだという事実を突きつけられたような気がして。 「ナンパされちゃうかも?」 「新婦の親族ナンパする奴とか終わってんだろ。」 「あ〜、それは終わってる。」 「変な奴に引っかかりそうだから酒はほどほどに。」 「は〜い。」 適当な返事をして、巻いた髪をハーフアップにすると付けてもらったネックレスと紅いルージュがより一層映えて見えたような気がした。 リョータが言ってくれたというのもあるのかもしれないけれど、たまには化粧をするのも悪くないのかもしれない。時間をかけた分だけ、ちゃんと見返りはあるのだとこの時初めて知った気がする。 普段しない事をして些か気分が良くなってしまった私は、まだ何かできることがないかを急に探し始める。口紅と同じ色をした紅いネイルは昨日のうちに済ませておいたし、他に何かできる事はないだろうか。もう一度まじまじと鏡に映る自分を見て、そして気づく。 「リョータのそのピアス貸してよ。」 「俺が今つけてるやつ?」 「ネックレスと同じ色でちょうどいいじゃん。」 耳元が何だか突然寂しいように感じたのだ。高校二年生でリョータとクラスメイトになる前から彼のことを認識はしていたけれど、それは“ピアスのひと”だった。男子高校生がピアスをつけているのは結構珍しい。だからとても印象に残っていたのを覚えている。いつ見ても、同じそのピアスをつけていた。 「衛生的にダメっしょ。」 「そうなの?」 「俺が病気持ちだったらアウトなやつ。」 「持ってんの?」 「例えばの話って普通わかんだろ。」 そうか、言われてみて確かにと思う。表面的ではなく、体に穴を開けて体の内側の粘膜が付いているのだから衛生上はよくないのだろう。考えたこともなかったけれど、ならリョータ以外の人に今つけているピアスを貸して欲しいと言えるかと言えばそんな事はない。リョータだから粘膜とか衛生面とか、そんな事が気にならなかっただけなのだろうと思う。 「てかそもそもピアスホールあんの?」 「え、普通にあるよ?」 「ピアスしてんのみたことね〜けど。」 「だってしてないもん。」 「いや、開けた意味。」 高校に進学してからだと開けた・開けてないで指導されそうな気がして、ならば最初から開いていたら文句のつけようもないとそう思ったのだ。どうしてもピアスを開けたかった訳ではなかったけれど、多分買い物をしていた時に可愛いピアスを見かけたくらいの、そんな些細なきっかけだったのだろうと思う。 「どっかで可愛いの買いなよ。」 「え〜、リョータのやつがいい。」 「こんなんどこにでも売ってるだろ?」 「そうなのかな?」 ピアスを開けたのはほとんど衝動的で、目をつけられるだろうという理由で高校時代学校につけていくこともなければ、その延長で特別休みの日もピアスをするという概念がなかったのかもしれない。 高校入学前から開いてる筈のピアスホールは何年待機しているんだろうか。買い物をする時に目につく事はあっても、きっと付けないだろうからと手に取ることもしなかった。そんな私には結婚式につけていくピアスなんてある筈もない。 「リョータのそれがいいなって思ったから。」 「そう?」 「うん。主張しすぎてなくて、でも綺麗。」 「…ん、ありあと。」 耳元は諦めて、事前に用意していた真珠の髪留めを付ける。これからもたまにはきちんと化粧も髪もやってみようか。毎日しっかり時間をかけてする必要はないだろうけれど、たまにする意味はあると思う。自分の気分を上げることもできるし、不思議と自己肯定感を高くもてるような気がした。 「可愛くできてるからこのままで充分。」 「これからは化粧も髪も頑張ってみたりして。」 気分が良くなっていたのは否めない。自己肯定感が高くなるというのはそういう事だ。それが少し上がるだけでモチベーションにつながったりもするのでとても大事な事なんだろうと思う。正面の鏡に右に、左に、角度を変えながら自分を映し出してなんだかとても楽しい気持ちになった。 「アヤちゃんはさ、」 「ん?」 「毎日時間かけて綺麗にしてるんだなって思った、いま。」 綺麗になったとその評価に有頂天になっていたけれど、私を介して彩子を見ている事に気付かされて何とも言えない気持ちに陥る。私はリョータの恋を応援しているし、それが叶えばいいと思っているのに?不思議な感情だ。 「お熱いね〜。」 「え?あ、いや、ちょっと思っただけじゃん!」 「青少年、動揺してるね。」 「そうやって揶揄うのやめてくれる?」 もう何年も前から知っていて、そして特に問題なく受け入れていた彩子の存在をいま改めて認識して何だか少しだけ気持ちがざわついた。いま知ったという訳でもないのに、どうして今更違和感を感じるのだろうか。そもそもそれがきっかけでリョータと仲良くなったのだから。今日はいつも以上に距離感が近かったり、イレギュラーなことがあったからそう思うだけなのかもしれない。 「やっぱや〜めた。」 「なにが?」 「化粧も髪も頑張るの。」 「可愛いって言ったのになんで?」 だからだ。こうしてしっかりとマスカラを塗って、ルージュを引いて、ゆるく髪を巻いてもその度にリョータが彩子を思い出すのだとしたら。そう考えると、ここまで時間と手間暇をかけてまでやるべきことではないような気がしたのだ。 マスカラを一生懸命塗らなくても、ルージュの色を悩まなくても、髪を巻かなくても私にはリョータと仲が良いという事実がある。可愛い自分でいないとリョータがいなくなるという訳じゃない。特別なことをしなくてもリョータは私の近くにいる事実があって、それで満足している自分がいる。だから、それでいい。寧ろそれ以外に何が必要なんだろうか。 「たまにやるから特別なんじゃん。」 「そ〜いう考え方も確かにあるか。」 「でしょ?だから、私は当分はいいかな。」 全身鏡を置いている場所まで移動して、そしてしっかり全身までを視界に映す。馬鹿っぽくみられたくなくて選んだシンプルな黒いドレス、くどすぎない巻き髪、それに負けないような化粧とポイントになるルージュ。 自己評価の高い女と思われたくはないけれど、それでも今日の自分はそこそこ評価してあげてもいいんじゃないだろうか。私だけが言っているのでは自意識過剰だけれど、いましっかり私を見ているリョータが第三者として綺麗と評価してくれている。そこだけを喜べばいいし、普段はそうだった筈なのに。その後に出てきた彩子の話で、それが全て打ち消されるくらいの衝撃があった。 「私のウリは自然体だしね?」 早めに家を出て、ピアスを買おう。リョータのピアスと違って、もっと見た目に華やかで豪華で派手なやつを買おうと思う。服をシンプルにしたんだから、やっぱりそれくらいしないといけない。それ以外の感情が働いている訳ではない筈だ。 「でも、俺この感じも好き。」 無意識というものほど残酷なものはないとこの時そう思った。 ⅲ.発光する生命体 |