午前零時を少し過ぎた頃、チャイム音が鳴った。
 この時間に響くチャイム音ほどの恐怖もなかなかないだろう。なんとなく心当たりがありながら、もし万一にもそうじゃなければ恐ろしすぎる。足音を殺しながら向かった玄関、息を殺しながら覗き穴を覗き込む。
 酔っ払ったリョータが立っている。
 しかも両手に袋を下げている。パーティーでもしようとしているのだろうか。日付が変わってばかりの深夜から?ドアを開ける前から、リョータがしっかりと酔っ払っているのがよく分かった。余程楽しかったのだろう。今日は高校時代のバスケ部の面子と飲んでくると聞いていたので、この状況にもそこまで驚きはしなかった。
「通報しようか?」
「え〜、なんで。」
「この時間に鳴るチャイム音の恐怖知らないでしょ?」
「じゃあ俺が一緒にいれば怖くないでしょ。」
「酔っ払いめ。」
 両手に持っているコンビニの袋を得意げに顔の上で私に見せつけているリョータはとても機嫌が良さそうだ。動画に撮って翌日リョータ本人に見せつけたいくらいの上機嫌だ。湘北メンバーで飲みにいくのは何気に初めてのことらしい。楽しみなんじゃない?私がそう聞いた時は、ま〜ねと適当な返事しかしなかった癖に、もう今はそれが強がりだったことが筒抜けなくらいの笑みが漏れている。
「やっぱ最後の一杯はここで〆ね〜とと思って。」
「うちは馴染みのバーかなんかですか。」
 部屋に上がってきたリョータは両手に抱えている袋をドサっと床に置いて、ドラえもんの四次元ポケットのように次々に物を取り出してはテーブルに置いていく。
 ビール、ビール、レモンサワー、グレープフルーツサワー、ビール、ビール、サンドウィッチ、唐揚げ、ビール、ポテチ、ポテチ、ポテチ、ビール。私を太らせる作戦でも練っているんだろうか。この買い物の仕方でも相当に酔っ払っているのが窺い知れる。
「そんなに飲んで明日の練習平気なの?」
「ん〜、へ〜き。明日午後からだし〜?」
「あ、そう。そりゃよかったね。」
 眼鏡を掛けたままソファーで半分寝落ちしていたくらいには眠いけれど、それでも目の前に好物を置かれてしまっては頂かない訳にはいかない。不思議なことにもう唐揚げの口にもなっているし、ポテチの口にもなっている。それをビールで流し込めば完成だ。深夜のテンションなので、なんとか許されると思っている。責任を負うのは明日の私でいい。
「アヤちゃんってお酒強そうじゃん?」
「うん、そうだね。」
「飲むお酒も可愛いし、すぐ酔っちゃってさ〜。」
「あ〜うんリョータくん、その話四周目だね?」
「やっぱ女の子だなって思ったし、可愛かった。」
 酒も飲めてしまうし、メガネにヘアバンでおでこ丸出しな私でごめんなさいね。あと何周この話を聞けば許してもらえるんだろうか。毎回初出し情報のようなテンションで言ってくるので、もしかしたら次は違う彩子の情報だろうかと構えてしまうが結局同じことを繰り返して四周目に突入している一時四十三分。ちょっと眠い。
「バスケ合宿しようって話になってさ。」
「合宿?」
「そう、海南とか陵南の面子に声かけて。」
「そりゃまた楽しそうなやつだね。」
 五周目に突入するんじゃないかと構えていたけど、ようやく違う話が出てきて少しだけ目が覚める。そんなドリームマッチのようなことなんてあるんだろうか。バスケに詳しくない私でさえもその凄さがよく分かる。高校二年生の時に試合を少しだけ見たことがあるので、その二校は知っていた。
「奇跡的に再来週の土日全員予定空いててさ、」
「…ふうん?」
「静岡に合宿いくことになったんだったわ〜。」
「へえ、いいね。」
 ついこの間アルバイト先の時給が上がった。ほんの数十円の話かもしれないけれど、結構地味に嬉しかったりする。実家から持ってきた古いテレビを買い替えようと、私としては一世一代の決断をしたのが少し前のこと。再来週の土曜日、リョータと街に出てテレビを一緒に買いに行く約束をしていたけれど、全くもって覚えていないらしい。多分酔ってるからとかではなくて、普通に忘れているんだろう。
「一緒にくればいいじゃん。」
「へ?わたし?」
「ダンナも三井さんも呼べばって言ってたし。」
「いやいやバスケの知識とかないし。」
 酔っ払いのテンションは時に怖い。自分もよく酔っ払うので自分を見ているようでヒヤヒヤする気持ちも否めない。酔っている時の心の広さはフリーダムだ、何でも許せる慈悲の心を持ち始めたりするので翌日自分を殴りたくなったりする。本当に赤木さんも三井さんもそんな事を言っていたんだろうか。言っていたとすれば、多分リョータと同じくらい酔っ払っていたんだろう。
「アヤちゃん女の子ひとりだと心細いだろうし。」
 ここ最近の私は、なんだかおかしい。リョータが彩子で頭がいっぱいなのは今に始まった事じゃないし、ずっとそれを知っていてなんとも思ってこなかったのに。いちいちその言葉のひとつひとつに反応して、意味を考えてしまう。今までのように笑って流してしまえた方が私自身も楽なのに。最近は聞き流すことができない。
「私が行っても浮いちゃうからやめとく。」
「は?浮かないっしょ。」
「だって私なんにもすることないじゃん。」
「いてくれるだけでいいの!」
 酔っている時のリョータの言葉はいつも直球でストレートに飛んでくる。普段は言うべきか言わないべきか精査してからしか自分の感情を出さないけれど、お酒が入るととても素直な二十歳の年相応な男の子になる。だから余計に辛いんだろうか。いてくれるだけでいいというパワーワードと、私を呼ぶ理由が彩子が一人で心細いだろうからというこれまたパワーワードと。同じ速度で飛んできたものは相殺されそうだが、実はそんなことはない。最初に聞いた言葉のインパクトが強過ぎて、全くもって相殺されていかない。
「彩子にアピールするいい機会じゃん。」
「俺も思ったけどなにアピールすりゃいいのよ?」
「そりゃリョータくんの得意のバスケで?」
「へへ、じゃあちゃんとシュート練習もしなきゃ。」
 改めてリョータの中には彩子しかいないんだと、今更すぎる事実を感じ取った。そんなこと知っていたのに、この釈然としない気持ちはなんだろうか。考えて、きっと約束を忘れられていることに対する負の感情が巻き起こしているのだと思い込ませることにした。きっとそうに違いない、私は約束を忘れられていたことに怒っているんだ。絶対にそうだ。
 この間一緒に映画を観ていた時、さりげなくリョータが呟いた言葉を思い出す。「テレビデカかったらもっと臨場感あるんだろうな〜」その言葉に同意した私がいた訳だが、結局リョータのその言葉がきっかけでテレビを買おうと思った事を今認識してしまった。
 これじゃあ、私が一方的にリョータを想っているみたいじゃないか。
 リョータへの感情は“恋”じゃない。ならば、それは何なのか。何という名称が当てはめられるんだろうか。分からない。今までずっとそんな疑問を抱くことなくいられたはずなのに、突然どうして。
「じゃあ私はその日映画でも観てこようかな。」
「なに観んの〜?」
「究極のラブロマンス。」
「そういうの好きだっけ?」
「そういう気分なの。」
 私は恋を知らない。したことがないからだ。どうしたら恋が始まって、どうしたら恋に落ちるのか。もしかしたらその映画から学ぶものがあるかもしれない。どれだけ部屋のテレビを大きく買い替えたとしても映画館には敵わない。だから、やっぱりテレビなんて買わなくていいような気がしてきた。
「面白かったら俺とも一緒にみよ?」
 酔ってるリョータの言葉はきっと嘘偽りのない本心なんだろうと思う。嬉しくなかったと言えばそれは嘘になってしまう。嬉しいからこそ、なんだか複雑な気持ちになる。なんで複雑な気持ちにならないといけないんだろうか。今まで感じていなかったその感情が得体がしれずとても怖い。そして、霧が晴れないようなモヤがかかっている。
「まだこの間のお笑いのやつ見れてない。」
「そうだっけ。」
「そうだよ、一緒に見るって約束したじゃん。」
「そっかそっか。」
 リョータはレモンサワーを流し込んでそう言った。酔いは覚めるどころかより深くなっているようだった。私との約束なんて、あまり効力はないのかもしれない。再来週の土曜日を少し楽しみにしていた自分に気がついて、何だか情けなくなった。
「お土産買ってきてね、鰻パイ。」
「あいよ〜、任せとけ。」
 リョータのことだ。この会話を万が一にも覚えていなかったとしてもきっと沢山お土産を買ってきてくれるだろう。リョータはいつも遠征に行く度にご当地もののお土産を買ってきてくれる。そうだ、私はそのお土産を楽しみにいつも通り待っていればいい。それでいい。
 レモンサワーを飲み切ることなくリョータはフェイドアウトした。




 宣言通りリョータは静岡へ合宿に行って、私も宣言通り映画館にいる。たまたま大学で映画の話をしたら一緒に行ける子が釣れた。今にして思えば、こうして大学の友人と遊んだこともほとんどなかったことに気がついた。何かをする時、いつも隣にいたのはリョータだった。
 巷で人気な“究極のラブロマンス”と呼ばれるその映画は正直よく分からなかった。私のような恋愛初心者には少しレベルが高過ぎたのかもしれない。次にもし観ることがあればもう少しレベルの低いラブロマンス映画を見ようと思う………レベルの低いラブロマンス映画って?
「せっかくだからカラオケ行こうよ!」
「あ、うん。行こうか。」
 いつも酔っ払って自宅でペットボトルを裏返してカラオケ大会をしているけれど、こうしてちゃんとしたカラオケに来るのはとても久しぶりな気がする。誘われて入ったカラオケは何だか少し緊張した。
 普段は考えなくても勝手に口から歌が出てくるのに、こうして改まってカラオケに来るとなにを入れていいのか急に分からなくなる。なかなかタッチペンの進まない私を見かねた友人がリモコンを奪ってピピピと操作していく。
「え、なに入れるつもり?」
「恋の歌っぽいやつ。」
「恋の歌?」
「そう、女子同士じゃないと歌えないじゃん?」
 そうか、あからさまな恋の歌は異性やグループでのカラオケでは歌いにくいものなのか。イントロが流れ始めると彼女は私にマイクを押し付ける。私?とそう指さすと、そう!とマイクを通して大きな声で言われてしまう。恋を歌った有名な曲だ。歌った事はないけれど、果たして私に歌い切れるだろうか。
「…なんで泣いてるの?」
「え、泣いてた?」
「てか現に今めっちゃ泣いてるじゃん……」
 言われて初めて気がついた。結局歌う事なく、流れてくる歌詞のテロップを目で追っていたら急に胸が苦しくなった。それがまるで今の自分の感情を謳っているような気がして、とてもとてもしんどい。リョータに抱いている感情が何なのか、まさかカラオケで知ることになるとは思わなかった。
 私は恋をしていたのだ。
 叶うことのない恋をしていたのだと、今気づいてしまった。  



ⅳ.転がした運命