人は結構無駄なものにお金を使っているらしい。
 自分の部屋の片付けをしていると、限りのあるお金を結構いらないものに費やしていることに気がつく。特に百円均一に行くと意味もなく目についたものを「やすい〜」と安易で頭の悪そうな理由で買ったりするけれど、それを使ったことは多分ほとんどない。
 要るもの、要らないものを段ボールに分けていく。
 精査していて分かったけれど、結構いるものは少なかったりする。要らない方の段ボールにどんどん物を積み重ね、そして溜まっていく。随分とスッキリしそうな気がした。こうして一度原点に立ち返ってみるのも時には大事なのかもしれない。
「宮城の奴なに迷ってんだろうな。」
「なんの話です?」
「アメリカ行きの話なんてそうそう来ねえのに。」
「……アメリカ?」
「なんだ、お前聞いてないのか?」
 久しぶりに大学で三井さんに会った。三井さんがどこの大学に行ったのかは知らなかったし、そもそも三井さんと交流が深かった訳でもない。仲良くない!と言いながらも何だかんだリョータと仲がいいので、高校時代にも何度か話したことがあるくらいの先輩だった。大学に入って見かけた時は相当驚いた。
「留学の話が出てんだと、あいつ。」
 そんな素振りなんてあっただろうかと考える。
 家の更新をするかしないかの話をした時、もしかするとこれを言おうか思案していたのだろうか。ならば何故私には言ってくれなかったのだろう。三井さんにはしっかり伝えて、相談しているくせに一番近くにいる私には何の知らせもなしだ。こういう時、やっぱりバスケをしている人にしかわからない話があるんだろうか。
「悩んでるんですか?リョータ。」
「お前置いていくのが心配とか言ってたぞ。」
「なにそれ。」
「知らねえよ、あいつに聞けって。」
 そんなこと一ミリも聞いてない。どうして私の事でアメリカに行くか行かないかを迷っているのか。ちゃんちゃらおかしな話だ。三井さんの話では、そう言った声がかかるのは本当に稀な事らしい。あいつに声がかかって俺にかからない意味がわかんねえ、そう言っていたのできっとすごい事なんだろうと思う。
「それ三井さんなら行く?」
「お〜、そりゃ二つ返事で行くわ。」
「ふうん。」
 聞けば留学にかかる費用も負担してもらえるらしい。そんな好条件、リョータにとって何の不都合があるんだろうか。飛びついて三井さんがするであろう二つ返事をリョータもしていても何もおかしくないのに何故それをしないのか。
 その理由が万が一にも本当に私だったとしたら?
 リョータの人生が変わってしまうと思った。あれだけ真摯にバスケに向き合ってきたリョータにとって、これほどのチャンスはないだろう。私ですらそれくらいは分かる。
 相談して欲しいとは言わない。せめて、言って欲しかった。その言葉におめでとうと心の底から言いたかった。こうして第三者から聞くんじゃなくて、リョータの口からそれを聞きたかった。とてもめでたい事なのに、どうして私はそれを共有できないんだろうか。
「静岡のお土産持ってきた。」
「うん。」
「………?早く開けてよ。」
「はあい。」
 お互いの合鍵を持っているはずなのに、リョータはこうして律儀にインターフォンを鳴らす。私の希望通り鰻パイを持っているリョータがいた。「今日の晩飯用」そう言って、私の好きな唐揚げの入った袋を見せてくれた。最寄りのスーパーで売っているにんにくたっぷりの唐揚げが私は大好きで、よくリョータと値引シールが貼られる少し前に張り込みながらスーパーに行ったりしたものだ。値引シールを待ったが故に買えなかった事もしばしば。
「なにこの荷物。」
「ん?要るものと要らないもの分けてるの。」
「断捨離?」
「うん、まあ…そうかな。」
 リョータはいつもと変わらないように定位置に座って、そして買ってきたのであろうコーヒーを飲んでいる。私はというと、ひたすら物の精査をしている。次の部屋は今よりも少し狭く小さいところを選んだけれど、特別それも問題がなさそうだ。
「断捨離にしては段ボール多すぎない?」
「うん、引っ越すことにしたから。」
「……は?」
 養生テープで次々に段ボールを閉じていく。急がないといけないので、必要最低限のものを投げ入れていく。あと数日もしない内に、私はこの部屋をでることになっているからだ。今日決めたことだ。新しい部屋はもう既に決めている。
「なんでだよ……」
「だってそろそろ家の更新の時期でしょ?」
「なら普通相談とかしない?」
「そうだよね、私もそう思ってた。」
 全く違う環境の家を選んだ。電車の沿線も違って、もっと都心の近いところ。きっとお洒落なカフェもあるだろうし、散歩をしたくなるようなお洒落な小道もあるようなそんな場所。物価が安く、治安が良く、桜の咲く時期に綺麗なこの土地から離れるのだ。
「アメリカ、行きなよ。」
「……なんで知ってんの?」
「なんでってか、私以外みんな知ってるでしょ。」
 そう言うとリョータはとても気まずい顔をしていた。反論できないからそういう顔になるんだろうと思う。長い沈黙が続く。その沈黙がアメリカ行きの話が事実であることを皮肉にも証明している。だとしたら、迷っていた理由は本当にさっき三井さんから聞いたどうしようもない理由なんだろうか。
「私のこと心配してくれた?平気だよ、私。」
 本当は平気じゃない。でも精一杯平気なふりをする。
 リョータがとてもとても大切にしていたバスケで評価をされているという事実、またとないチャンス、そんなものを手放す必要なんてあるはずがない。彩子にもバスケにも一途でいつも一生懸命なリョータが好きだった。
「リョータから聞きたかったな。」
 本音がこぼれ落ちた。リョータが自分の口から留学をすると言っていたとしても当然ショックはあっただろう。けれど何も知らされないことはそれ以上にショックだった。私にとってリョータは一番距離の近い友人で、リョータにとってもそれは同じと思っていたから。
「言わなかったとかそういうんじゃなくて、」
「三井さんには相談したのに?」
「ほんとにどうしようか迷ってたから。」
「私には相談できなかったってこと?」
 とても醜い嫉妬が自分の口から滑り落ちて自己嫌悪に陥る。こんなことを言いたかった訳じゃない。迷う必要なんてない、自信を持ってアメリカに行けばいいとそう言いたかっただけなのに。何事も思っているようには進まないらしい。
「リョータいなくても大丈夫だから、私。」
 嫌な言い方をした。自覚はある。きっと繊細なリョータは少なからずショックを受けただろうと思う。今の私には他人を思いやる余裕なんてなくて、精一杯平気なふりをする事でいっぱいいっぱいだ。でも手は動かさないといけない。二日後に、この家を出ないといけないのだから。
「私だったら一番最初に相談してたけどな。」
「……ごめん。」
「ううん、私がそうなれかっただけだし。」
「ほんとそうじゃなくて、」
 そうでしかないじゃん!言いそうになって、必死になって止めた。もう無理かもしれないけれど、ちゃんと応援して送り出したい。全部飲み込んで、頑張ってきなよと言わないといけないのだ。
「リョータも解約の手続きしなきゃでしょ?」
「まだ行くって決めてない。」
「行くんだよ、行かないとダメだよ。」
 リョータがいる今の生活がずっと続いていくんだと思ってた。私の生活の中にはリョータがいつもいて、そこからリョータがいなくなるのは考えたことがなかったのかもしれない。私にとって一番大切なひと。恋という一言では表現することができないかけがえのない唯一無二のひと。
 家の更新まではあと数ヶ月ある。それまで此処に残り強く意志を持ち続ける自信が私にはなかった。やっぱり行って欲しくないと言ってしまいそうな自分が想像できてしまって、だからできるだけ早くこの家を出ようと思ったのだ。この家にはリョータとの思い出が多すぎる。
「ここ、いつ出るの。」
「明後日、間に合えば明日に出るけど。」
「なんでそんなに急なんだよ。」
「なんでって………」
 リョータからしてみれば私のこの行動は「なんで?」の連続だろう。それもそうだ。ついこの間まで家の更新の事すら知らなかった私が、急に荷造りを始めているんだから。
「自分の本当の気持ちを自覚しちゃうとさ、色々としんどいんだよ。」
 こうして洋服を畳んで段ボールの中に詰め込んでいく作業ですら苦痛なくらいに。作業が終わって何もすることがなくなった時、冷静に自分のこの感情と向き合わないといけないのが今からとても恐ろしい。生活の一部になっていたリョータが居ない生活を受け入れて生きていかないといけないから。
「だから早く出る。」
「…なんだよそれ、」
「リョータも荷造り手伝ってよ。」
「話聞いてる?」
 この家で、リョータと沢山の時間を一緒に生きてきた。今になって思い返してみれば、どの瞬間もリョータに抱いていた感情が恋だったとそう思う。ならば何故それを自覚していなかったのか。それは自覚することで今までのような関係性で一緒にいることができなくなる。きっと私の本能が、そう判断していたんだろうと思う。

『私が応援するよ、その恋。』

 この言葉がリョータと仲良くなるきっかけだった。
 いつも真っ直ぐに彩子を見ているリョータを応援したいとそう思ったのを覚えている。けれどきっと、この時から私はリョータの事が好きだったんだろう。リョータが彩子のことを好きなところを含めたその全てが。全部、好きだった。
「もう約束守れそうにないから。」
 まだ恋をしたことがないと思っていた。いつになれば恋をするんだろうか。どうすれば恋はできるのか。
 いつかドラマで聴いたような科白を思い出す。恋はするものではなく落ちるものだと。随分と綺麗でそして恥ずかしい言葉だと思った。今になってその言葉の意味がよく分かるような気がした。私はもう何年も前に、恋に落ちていたのだ。
「これ返すね、リョータも私の鍵返してくれる?」
「ちょっと待てって、」
「待てない、解約手続きしちゃったし。」
 また一箱荷造りが終わって、どんどんと物がなくなった部屋はいつも以上に広く見えた。リョータが立ち上がって、一歩二歩とこちらに歩みを進めてくる。物がない部屋はいつも以上に音を響かせている。初めてこの家を内覧した時にも思ったことだ。
「これが最後になってもいいの?」
 そのつもりだった。今朝三井さんと大学で会って話を聞いた時、すぐに不動産に出向いて家の契約をした。最短で引越しの対応をしてくれる業者を探した。近所のスーパーで余っている段ボールを貰ってきて荷造りをした。全部リョータと離れる為に私がした事だ。でも、リョータのその言葉がとてもリアルで、その現実を受け止めきれなくなった。
「…泣いてんの?」
「泣いてないよ。」
「泣いてんじゃん。」
「泣いてるけど泣いてない。」
 作業の手が止まる。比例せず涙は止まらない。どうしてそんな事聞いてくるんだろう。まるでトドメを刺されたような気分だ。玄関の扉を開いてからほとんどまともにリョータの顔を見られていない。見てしまうと心の奥底に閉じ込めた弱音がまろび出てしまいそうな気がして。
「……泣いてんのリョータじゃん。」
 アメリカでも頑張って。たったその一言が全く出てこない。精一杯平気なふりをしてでも、絶対に笑顔でそう言うつもりでいたのに。リョータを視界に映すともっと歪んでそして滲んで見えた。
 この街が、この部屋が、私は大好きだった。そして、どうして好きなのかに今ようやく気づいた。それは至極簡単なことで、今更というくらい当たり前のことで。それはこの街にも、この部屋にもリョータがいたからだ。リョータがいなければ成立しない、とても簡単なことだった。
 恋は、とてもしょっぱい。  



ⅴ.ジンライムの月