三◯ニ号室が空き家になって一週間が経った。
 ほとんど毎日顔を合わせる関係だったから一週間が経ってもこの感覚に慣れることはない。マンションに着くとポストの中身を確認して、そしてそのまま階段を登っていく。この二年、そういうルーティンが確かにあった。俺の部屋は一階なのに。
 結局止めることができなかった。
 静岡土産と好物の近所のスーパーで買った唐揚げを持って三階まで階段を登って待っていた光景は、段ボールに囲まれたがらんとした部屋だった。あの時二人で一緒に内覧をした時の空っぽな部屋に限りなく近い。既に俺が何を言ったところでどうしようもない状態で、本当にその二日後、三◯二号室はもぬけの殻になっていた。
 あの日言われた言葉をひとつひとつ思い出す。
『自分の本当の気持ちを自覚しちゃうとさ、色々としんどいんだよ。』
 あの言葉の本当の意味をずっと考えていて、でもはっきりとした答えには辿りつかない。ニュアンス的に感じ取れるものはあったけど、ならどうしてそれがあのタイミングだったのか。だとしたらいつからそう想っていたんだろうか。答え合わせすることなく、本当に居なくなってしまった。

 一緒にいる事が当たり前でこんな結末を予測にもしていなかった分、ダメージは大きい。普段一人でいる時に自分が何をして過ごしていたのかすら分からず時間を持て余した。今も無意識にマンションの階段を登ってしまうからその度に虚しくなった。
 突然引っ越すと言われ、アメリカに行けと言われたあの日。あまりにも突然やってきた別れにみっともないくらい取り乱した。普段明るく気丈な人間の涙ほど堪えるものはなくて、本当にこれで終わりなんだと思うと自分に素直すぎる感情が溢れ出ていた。

 いつもの大学の帰り道。最寄りのスーパーに寄って帰るという俺のルーティンに組み込まれた行動。値引きシールが貼られていないかちょっと楽しみにしながら惣菜コーナーに行って、にんにくたっぷりの唐揚げを買う。腹を空かせてんじゃないかと思って小走りで帰る帰り道、三階まで駆け上る階段。
 日常に組み込まれているそのルーティンがあまりに辛くて、いつもと違う遠回りな道を選んで帰る。当たり前にあった日常が、どんどん俺の日常から消えていく。それなのに思い出は一向に消えなくてどうにかなりそうだった。
「リョータ!」
「アヤちゃん?」
「随分遅かったじゃない。」
「…てかどうしたの?」
「取り敢えず部屋あげてよ。」
 彼女が家を訪ねてきたのはこれが初めてのことだ。会うのはこの間の静岡合宿以来だけど、一体何の用事なんだろうか。まるで見当がつかない。あっけに取られている間に背中を押されて、久しぶりに部屋に人を上げた。
「何か急用でもあった?」
「急用じゃないけど、大事な用事ならあるわよ。」
「なに、そんな勿体ぶらないでよ。」
 鞄を置いて、地べたに座り込んだ。同じ間取りの筈なのに、三◯二号室よりも俺の部屋は広いような気がした。そんな事今まで一度たりとも感じことはなかったのに。広く感じたのに、なんだか窮屈な気分だった。
「これ、あの子からの預かり物。」
 手渡されたのは一枚のポストカード。アメリカのシンボルとなっている自由の女神がデカデカと写っている写真だ。裏返しにしてみると、一言だけ「頑張れ!」本当にそれだけかと疑いたくなる程に潔いシンプルな言葉が記されていた。あまりにも“らしい”その言葉に、久しぶりに笑った気がする。
 多分この頑張れには二つの意味があって、ひとつはアメリカ留学への後押しだ。もう一つは、俺の恋への後押しだ。どんな気持ちでこのポストカードを彼女に託したんだろうか。
「リョータのその感情なんて言うか知ってる?」
「…ん?」
 ここ最近、息がしにくい。意識をして呼吸をしないと息が詰まるようで、自然に息を吸えない感じがする。いつもバクバクと煩い心臓は、ここ最近やけにおとなしく落ちつている。ちょうど、一週間前のあの日から。
「それ恋って言うのよ?」
 なら今まで恋だと思っていたものは一体なんだったのか。よく分からない。でも確実にひとつわかる事がある。今目の前にいる俺の恋の相手である彼女の事よりも、明確にこの一週間別の女性のことをずっと考えていたという事実。
「でも俺……、アヤちゃんのことが好きだよ。」
「それは純粋に嬉しい。でも恋って色んな形があって、恋は“恋”っていう感情ひとつだけで成り立ってる訳じゃないと思うの。」
 その言葉で、全てが繋がった気がした。何故それが恋ではないと思っていたのか。それはきっと恋以外の沢山の感情が含まれていたからだったのかもしれない。最高の友達で、最高に笑い合える相手で、俺のことを一番理解してくれているひと。多分、それを全部ひっくるめて恋と呼ぶのだろう。
「難しいんだな、恋って。」
「離れて気づいたんじゃない、いま。」
 結局俺はいつもそうだ。自分の手を離れて行ったタイミングでしか気づく事ができない大馬鹿者だ。失って初めてその価値を知る。どれだけ自分にとってなくてはならない存在だったのか。もう何度も失ってきてるのに、どうして学習しないんだろう。
「留学のはなし、」
「…ん?」
「私や三井さんには結構前から相談してたじゃない?」
 アメリカでバスケをしてみないかという誘いが来たのは年が明けてすぐの事だった。まさか自分が?という半信半疑な気持ちと、純粋に嬉しいという気持ちが混在していた。最初に三井さんを相談相手にしたのはシンプルに間違えた。「お前に来て俺に誘いが来ないってのはどういうことだ?」と言われて「そ〜いう事だろ」そう言ったら暫く煩かった。
「結局あの子には言わなかったんでしょ。」
 的確なその言葉に、思わずうっと言葉が詰まる。その通り過ぎると人間本当にぐうの音も出ない状態に陥るらしい。
 隠すつもりは毛頭なかったし、いつかはちゃんと言わないといけないと思っていた。でもそう思えば思うほどどんどんと言うタイミングを逃して、結局自分の口から伝える事ができなかった。行くか行かないか、正直相当迷っていたからだ。だから、きちんと決まってから伝えようと思っていた。結局きちんと決まることなんてなかった訳だけど。
「…俺の心が透けて見えてたりするの?」
「透かさなくても見てれば分かるわよ。」
 決まらなかったのは、多分俺の甘えとか弱さだったんだろうと思う。
 今までのとても居心地のいい生活を捨ててまでアメリカに行く必要があるのだろうか。バスケは日本でも出来るし、アメリカに行ったから必ず成功するものでもない。そんな確証のないものに賭けるより、もう既にある確証のある生活の方が大切なような気がして。
 正直にそう言う度胸はなくて、あいつを置いていくのが心配というよく分からない理由を取ってつけた。置いていくのが心配なんじゃなくて、本当は今のこの環境を変えるのがどうしようもなく怖かった。あいつのいない生活が、日常が怖かった。
「私には事前に相談できたのに、あの子には言えなかったのが何でか考えればきっとアンタにも答えが分かるわよ。」
 自分の恋の話を聞かせていたその相手が、まさか恋の相手だったとは思いもしなかった。でも不思議と、それは間違いなく恋だと今は確信している自分がいるのでおかしな話だと思う。どうして今まで気づかなかったのか、逆にそれが不思議なくらいだ。
「アヤちゃん。」
「なに。」
「俺さ、決めたよ。」
 ようやく腹が据わった。この何ヶ月間も悩み続けていたのに、それが嘘だったように突然覚悟が決まっていた。もう迷いはない。自分にできることが何かを考えた時、託されたポストカードに書かれていたその一言に尽きるとそう思った。
「アメリカに行くよ、俺。」
「そう。」
 自分の可能性を自分で決めつけるのは、もうやめよう。




 ひとりになって、もう一度考える。アメリカに行くことはもう決めた。ならば、アメリカに行く前になにをすべきなのか。今の自分に何ができて、そして何をやり残しているのか。
 きっと無心になってバスケに打ち込む覚悟がなければアメリカに行っても俺は潰れるだろう。そんなに甘い世界じゃない事はよく分かってる。だから今までずっと尻込みをしていた。
 ベッドの上から眺めた窓の向こうには、綺麗な三日月が浮かんでいる。
『リョータ、あれ見てよ。』
『あれってどれだよ。』
『目の前にあるじゃん、三日月。』
『で、それがどうしたよ?』
 いつだか飲みに行った日の帰り道。結構お互い酔っていたような気がする。隣で両手で四角を作り上げて、その三日月を枠内に収めている酔っ払いの戯言。普段飲みなれない飲み物を二人して飲んだから酔っていたのかもしれない。
『さっき飲んだジンライムみたいじゃない?』
 ふいにその夜の事を思い出した。
 こうして月を見上げるのも随分と久しぶりな気がする。あの時は酔っ払いの戯言くらいにしか思っていなかったけど、よくよく見ると確かに似ているような気がした。等分されたライムのようなその月にそっと手を伸ばして、掌の上に乗せてみる。あいつがあの時、そうしていたから。
 ベッドから起き上がって、テーブルの上に置いてあった二つの書類を手に取る。
 一度開封していたその封筒を開いて、テーブルの上にもう一度置き直した。それぞれの書類を横に並べて、そしてボールペンを走らせる。自分の意志が変わる前に、弱い自分がもう出てこないように。
 留学の書類と、家の解約をする為の書類と。
 思い出が多すぎるこのマンションを、俺も出ることにした。

 BGM:DISH// 猫  



ⅵ.来世も恋をする