引っ越しをしてからもう間も無く三週間が経とうとしている。大学へは二十分程ほど近くなった。最初の一週間は引越しの作業に追われてバタバタしていた生活も、三週間も経てば随分と落ち着いていた。引越しと一緒に断捨離をしたので荷物がそもそも少なく想定よりも早く終わってしまった。
 引越しの作業や他に集中することがあれば気が紛れる。色々と考えなくて済むということだ。皮肉なことに、今の私には暇をもて遊ぶくらいの時間が日々続いている。こういう時、いつも決まって隣にはリョータがいた。だから、有り余るこの時間と暇をどうしていいのか正解が分からない。
「……もしかして私を待ち伏せてました?」
「なんで警戒してんだよ。」
「いや警戒というか…珍しいから。」
 なんとなくこれから何を言われて、何が起こるのか想像ができる。三井さんは分かりやすいひとだから。真っ直ぐで嘘をつけないひと。それが三井さんの良いところなんだけれど。
「お前今日何限まで?」
「四限ですけど。」
「なら終わったらここで待ち合わせな。」
 その詳細や理由は一切述べることもせずに一方的に会話を終わらせると、じゃあな!と私を置き去りにして構内に消えていく。嘘が下手すぎる。上手くやったと思っていそうだけれど、それが他の人にも通用すると思っているのだろうか。誰に何を頼まれたのか、すぐにピンときた。
 きっと四限終わりのこの待ち合わせ場所には三井さんではなくて、リョータがいるんだろう。今のところ三井さんが私に用事があるとは思えない。嘘が下手だと分かりながらも三井さんに嘘を付かせてまで約束を取り付けるのはリョータしかいない。盛大な私の自惚れである可能性は完全に否定できないけれど。
 彩子はちゃんとあのポストカードを渡してくれただろうか。
 リョータはちゃんとアメリカ行きを決めて、彩子にも気持ちを伝えられただろうか。
 今日はその報告で私を訪ねてくるんだろうか。ふたりは上手くいったんだろうか。自分が込めた二つの意味の“頑張れ!”その言葉をリョータはしっかり汲んでくれただろうか。
 リョータと仲良くなった当初のその約束を、私はしっかりと果たせていただろうか。
「リョ〜タ!」
「わっ……なに、びっくりするじゃん。」
「会いに来たんでしょ?三井さんまで使って。」
「そこまでど直球に言わないでくんない?」
「はは、ごめんごめん。」
 あの家を出ていくと決めた日、リョータを応援すると決めた。例えその応援した未来に私がいなくてもそれでもそうすると決めたのだ。バスケも頑張ってほしいし、長年一途に思い続けてきた片想いに対しても。そもそも私とリョータの始まりは、その恋を応援するという関係性から始まったのだから。
 だから今日は湿っぽい感じは出さずにしっかりと背中を押したいとそう思った。まだ整理のついていなかったあの日とは違う。考えるだけの時間と暇を持て余していた間で、ゆっくりと時間をかけて考えたことだった。
「リョータが言った言葉、実は結構引っかかっててさ。これが最後になってもいいのかって、全然よくなかったから………」
 引越して一週間が経過して色々と落ち着いた頃、嫌でも勝手にあの日のことが蘇っていた。同じマンションに住んで、一緒にご飯を食べて、テレビを見て、時に飲みすぎるくらいに飲んでしまって、腹がちぎれるくらい笑っていたのに。そんな約二年の時をほとんど毎日一緒に過ごしてきたのに、あんな最後はあまりに悲しすぎる。
「だからちゃんと最後に会えてよかった。」
 買い物をしていても同じ物を手に取るし、同じテレビ番組が好きだった。さりげなくテレビを流している時でも、同じところで突然笑い始めて、それにまた笑ったりもした。そんなひと、きっとリョータしかいない。これから先のことなんて分からないけど、少なくとも私の二十年という人生の中では唯一無二の存在だった。
 だから、ちゃんと終わらせたい。思い出す度にしんどくなるそんな思い出なんかじゃなくて、リョータに恋をして、好きでよかったと思えるそんな思い出を締めくくりとして。
「三十分だけ俺に時間くれない?」
 言われるまま着いて行ったリョータの背中。いつも一緒に買い物に行く時もよくこの背中を道標にしながら歩いたことを思い出す。私の半歩前を歩いているリョータの背中がとても懐かしい。まだあれから一ヶ月も経っていないのに、遠い昔のことのように感じられた。
 上背がある訳じゃないのに、とても広く大きく感じられるその背中を見るのが好きだったんだと今になって気がつく。
 私が彩子だったら見ることの出来ない特別な景色なのかもしれないと、そう前向きに思ってみたりする。
 きっと彩子と一緒に歩く時は、彩子と歩幅を合わせながら歩くだろうから。
「どこ連れてってくれるの?」
「ん?ファミレスだけど。」
「なんだ、ファミレスだったか。」
「逆になんだと思ってたんだよ?」
「高級フレンチとか。」
「行った事あったか、そんなとこ。」
「まるでないね。」
 暫く駅の方向に向かって歩いていると、見覚えしかないファミリーレストランが見えた。私たちの住んでいたマンションの近くにもあった馴染み深い看板を目掛けて階段を上がっていく。
 通された席のソファーまで一緒だ。さすがチェーンということもあって、内装からソファーの感触まで同じだ。オレンジがかった背もたれに、深みのある濃いグリーンのシート。まるであの家に住んでいて、食事をしにきたような感覚に陥る、そんな感覚だ。
「なんか食べる?」
「ん〜、ドリンクバーでいいかな。」
「じゃあ俺もそうするわ。」
 注文を終えるとリョータが席を立つ。いつも私はドリンクバーに向かう背中を見ていて、そして彼が何を入れて持ってくるのかを眺めていた。そういうルーティンだ。どんなルーティンがあるのか、その全てを把握はしていないけれど、きっと私とリョータには暗黙のルールやルーティンが沢山存在している。
 ルールを特別決めたという訳じゃなかった。気づいた時にはそうなっていたというだけのこと。確かにそこには“ふたりの生活”があった。
「ん?これじゃなかった?」
「ううん、やっぱすごいな〜と思って。」
「今更なんじゃなかったっけ。」
「そうだったね。」
 リョータが持ってきたアイスコーヒーをストローで吸い上げる。三十分だけ時間をくれないかとドキドキするような事を言われたけれど、一体何をしようとしているんだろうか。こんな庶民的で、そして沢山思い出の詰まっているこの店で。
 席の都合上、真正面に座るリョータが視界いっぱいに映される。いつから彼を見ることで、こうして鼓動が早くなるようになったんだろうか。
「忘れもの、渡しに来た。」
「私なんか忘れてた?」
「ん、これ。」
 リョータが出した小さい袋に特別見覚えはない。白っぽい、とても小さい布地の袋。巾着のようになっている紐を両手で引っ張っていく。中を覗いても何が入っているのか分からない程にそれは小さくて、布地のお尻を掴んでテーブルの上に広げた。
「私の忘れ物じゃないね、これ。」
 テーブルに転げ落ちたそれは、いつかに私が貸してほしいと駄々を捏ねたリョータのピアスだ。けれどリョータの左耳にはいつもと同じように、控えめながらもピアスが光っている。
「忘れ物だよ。」
「言ってる意味わかんないよ?」
「俺が渡すの忘れてたから。」
 リョータが他のピアスをしているのは見たことがない。今つけているものと見た目には全く同じに見えるそれは、彼のピアスの片割れなのだろうか。それを聞いてまで確認する勇気は私にはなかった。
「だから結局はの忘れものでしょ?」
 リョータから最後に名前を呼ばれたのはいつの事だっただろうか。あまりにも近くにいすぎたからか、高校時代より名前で呼ばれる事が少なくなっていた。名前を呼び合わなくても私たちの会話には私とリョータしか存在していないのだから、特別名前を呼ばずとも会話が成立してしまう。
 沢山名前を呼ばれているであろう彩子を時々羨ましく思っていた。結局、今になって思えばずっと私はリョータに恋をしていたのだと気付かされる。
「実家に帰って探し出してきた。」
「そこまでして?」
「そう、そこまでして。」
 まだ高校生の頃、リョータが左耳にしかピアスを付けていないことを不思議に思って聞いたことがあった。聞かれた当の本人は恥ずかしいのか「男が両方つけてたらきしょいだろ」そう言っていたけれど、いつだかクラスメイトが言っていた言葉を今も覚えている。
 ピアスをつけることには左右で意味が違って、左側につけている意味を聞いた時、とてもしっくり来たのだ。それが彩子に対するものだと。
 だから思わずにはいられない。どうしてこんな演出をするのか。わざわざ時間を作って、そして実家に帰ってまで探したのだと言って。
 期待させるような言葉を、どうして。
「嫌だったら別に捨ててもいいから。」
 捨てられる筈もなければ、捨てる訳もないのに本当にずるい。私にそんな度胸のある事ができる筈ないと知っているくせに敢えてそんな言葉を突きつけてくるんだから。でも、きっとリョータならそう言うだろうなと思わせる、ちゃんとしたリョータの言葉だった。
「ずるいなあ……」
「どのあたりが?」
「全部でしょ。」
「俺ってば罪作りな男だなあ。」
「ほんとだよ。」
 リョータが何を考えているかなんて私には分からない。ただ感性だったり趣味趣向が似ているというそれだけのこと。だからこのピアスの本当の意味なんて、私には分からない。分からないけれど、聞いてまで確認することでもない。この事実だけで、もう充分に満たされてその心意気はとても伝わっているから。
「あれからずっと考えてた。自分の本当の気持ちを自覚するとしんどいって……あれってほんとなんだな?」
 もうそれ以上聞くのが辛くて、あの日封じ込めたはずの弱音や本心が腹の底から込み上げて来そうな気がして耳を塞いでしまいたいくらいにとてもしんどい。そんなの今のこのタイミングで聞いたところで、どうしようもないのに。
「アメリカにはいつ発つの?」
「明日。」
「また随分と急だね。」
「どっかの誰かさんと同じでね。」
 もっと時間はあった筈なのに。あの家を出てから三週間しか経っていないと思っていた。けれど、それは三週間もあるという意味も同時に持っていて、こうして会うのがアメリカに発つ前日じゃないといけない必要などどこにもない。
「意志が揺るいだらダッセェじゃんね?」
 根本的に私とリョータは似ているんだとそう思った。自分の確固たる意志が、けれど脆い意志が揺らがないように自分を追い込む。もう逃げ場がない状態を自分で作り出して、そして実行する。やっぱり、どうしようもなく似ているんだ。
「じゃあお見送りは行けないね。」
「十時十五分。」
「今行かないって言ったよね?」
「ただの呟きだし?」
 リョータから貰ったピアスを巾着の中にしまって、そっと紐を引っ張った。あの時と同じ感情だ。リョータがこれが最後になっていいのかと尋ねてきた時と同じで、これが本当に最後なんだとそう思った。
 最後くらい楽しい思い出をと思って自分のテンションを維持していたのに、もうそのエンジンもブレーキも私には操縦できない。どんな形であっても、最後なんて来てほしくなかったという当たり前でシンプルすぎる事実と願望。奥底に沈めたはずの弱い心。全部、リョータが曝け出していく。
「どうでもいいけど早くない?」
「どうでもよくはないだろ。」
「うん、どうでもよくはなかった。」
 ここ最近のリョータは、私を泣かせるのが得意だ。絶対に笑顔でリョータをアメリカに送り出すと決めたあの確固たる決意は、結局ここで崩れ去った。折角リョータがアメリカに行って挑戦すると言っているのに、どうして肝心な時に私はいつもこうなんだろう。
「アメリカに行こうと決心できたのは、のおかげだと思ってる。これは冗談じゃなく、マジで。」
「…どれが冗談だったの?」
「そういう揚げ足は取らないで。」
 私の何が後押になって、そして決定打になったのかは分からない。けれど、それを決断するきっかけになれたのなら、どんな理由であっても嬉しかった。だから深堀はしない。深堀をしても、余計に名残惜しくなるだけだから。
「三十分。」
「ん?」
「ちょうど経ったよ、いま。」
「…そっか。」
 幸せと辛さが混在していて、自分の感情に整理が付かない。もうこれ以上一緒にいてはきっと弱い自分が出てくるような気がして、あと十二分残っていた時間を偽ってそう伝えた。リョータもきっと分かっていたけれど、特別反論も否定もしてこなかった。
「じゃあ帰るね。」
「送っていく?」
「ううん、まだ明るいし平気。」
「そっか。」
 ソファーから立ち上がって、鞄を手に取る。リョータから貰ったピアスの巾着は失くさないようチャックの付いている内ポケットに入れ込んだ。ギリギリのところで、まだ笑顔が作れているのに、次の言葉がなかなか浮かんでこない。
 いつも通りであれば、またねとそう言えばいい。でも、明日にはアメリカに発ってしまうリョータにはなんて声をかけるのが正解なんだろうか。金輪際一生日本に帰ってこないという訳でもなさそうだし、何も考えずにいつもと同じ言葉を紡げばいいのかもしれない。
 そう言えばいいと思えば思うほど、余計にその言葉が口から出てこない。またすぐに会えるんじゃないか、そんな期待を自分に抱かせてしまうからなのかもしれない。
 でも、さようならと言うこともできない。日本語は難しい。
「何か掴むまで帰ってきちゃ駄目だよ?」
 そう言った。リョータが帰ってこないことに理由をつけておかないと、ずっと待ってしまいそうで。
 確かにそれは、恋だった。  



ⅶ.ラブソングを口ずさむ前に