Case1. 名前を呼ばない理由 卒業と同時にこの恋は終わりにしよう。 そう思っていた。けれどそんな彼は卒業式を待たず渡米してしまった。ちゃんと踏ん切りを付けようとしていた私の気持ちにも待ったなしだ。 彼を忘れるために立てた予定が私を縛り付け、逆にその存在の大きさを知らしめる。 宮城のことが好きだった。 入学して最初のクラス、そこに彼はいた。重力に逆らうように固められたウェーブのかかった髪型、何も隠すものがない左耳のピアス、角度をつけてへの字を描いている眉毛、少し無愛想な口調、重たくのし掛かっている大きな二重が気怠そうな瞳。 入学して初日、クラスの中で一番遠く、そしてきっと関わることがないだろうと思ったのが彼だった。 多分一番驚いたのは私自身で、そして私はこの三年間一度たりともこの感情を他言することなくここまで来た。誰にも言うつもりがなかったからだ。それは私が彼を好きになった理由に隠されているのかもしれない。 「次どれにすんの?」 「なに、藪から棒に。」 「なんの委員会にすんのか気になるじゃん。」 「私のストーカーでもやってる?」 「は?ふつ〜に確認だろ。」 宮城とは二年でクラスが離れて、三年になって一年ぶりに同じクラスになった。一年ぶりなのに特別真新しさを感じないのは、きっと今彼の口から出ているそれが理由なのだろうと思う。 一年生の一学期から、私はずっと彼と同じ委員会に所属している。 別に私の方から合わせようと提案した訳じゃない。たまたま最初の委員会で彼と同じになって、そして学期が変わる頃になると当たり前のようにこの会話が出てくるようになった。そもそも彼と親しく話す今のような関係になったきっかけが委員会だったのかもしれない。 「じゃあ教えない。」 「は?なんでだよ?」 「私一人で委員会することになるから。」 「この間図書室ちゃんと行ったじゃん?」 「そうだね、ぐっすりお眠りになってたけど。」 ずっと図書委員に所属していたという訳ではなくて、この間までがそうだったというだけのこと。表に立つことには酷く抵抗があるので、なるべくひっそりと目立たないそんな委員会を順繰りこの三年間回してきたというだけ。そしてこの三年間、私のいる委員会に常に彼はいたというただの事実。 「本借りに行ったら宮城が貸出してくれるとか割と無理のある設定だったと私は思うけどね。」 「人を見た目で判断するなし?」 「なら図書館では寝ないでください。」 多分彼は私のことを好きなんだろうと思う。 けれどそれは私が彼に抱いている好きの感情とは違って、まるっきり色を含まない友情としてのそれだ。私のように色づいたり胸がざわついたりするものではない。クラスが離れていた時も、私に何の委員会に入るか確認する彼にとって、私は気の置ける友人だったのだろうと思う。 嬉しくない訳じゃない。それを嬉しく思った事だってある。 けれど、一方でそれは私を苦しめる。私は宮城のことが好きで、きっと宮城も私のことが好きなんだろう。それが分かっているからこそ、同じ“好き”の言葉の意味合いが異なっているのがあまりに如実に感じられて苦しくなる。 同じ言葉なのに、日本語は随分と複雑で色んな意味を持つ。 「といるとさ、楽なんだよ。」 その言葉の意味を考えてみる。 間違いなく悪い意味ではない。悪い要素は一ミリたりともないと簡単に分かるし、そして言う相手を限定する言葉だとも思う。つまり私は彼にとって選ばれし数少ない人間なのかもしれないし、少なくとも心を許してもらってはいるのだろう。 けれど、それはそれ以上先に進むことがないという示しにもなっているような気がしてならない。今の言葉を私ではなく彩子にも同じように言えるかと考えれば、答えはノーだからだ。 「宮城の楽は私の負担おっきくない?」 「そっか?」 「いや、そうなんだよ。」 「え〜?」 「え〜は私の科白ね。」 好きな人がそばにいる生活。一見とても羨ましいように見えて、時々ふいに心臓を抉られることがある。誰よりも近くにいるからこそ、誰もが知っているその視線の先をやっぱり誰よりも分かってしまう自分がいるから。時々あまりに自分が不憫で、心がペしゃんこに潰れそうになる。 いくら私に本音や他の人には言えないような甘えを見せたとしても、それはその関係が上限という事で、超えてくることはないのだろうと思う。それが感じられる度に、心が軋む。 「彩子が保健委員やるって言ってたよ。」 「…え、そうなの?」 少し気だるそうに重たい瞼が大きく開いて、色素の薄い彼の瞳がくりっと大きく弧を描いて揺れる。それは私に対しての表情なんかじゃない。私だけがそれを引き出せないのではなくて、たった一人しかその表情を引き出せないという単純な事実だ。 「やってみればいいじゃん?」 「でもさ………、」 「なに、女々しいな。」 「だって一緒にいたって意味ねえし……」 嗚呼、そうか。 彼の言葉の真髄を何となく理解して、飲み込んだ。普通に考えれば部活も引退して彩子とクラスも離れた彼にとってこれはチャンスでしかない筈なのに、それは真逆な答えで。一瞬違和感を感じながらも、けれどとてもしっくりくるような気がしたのだ。 「言わなくていいの?」 「ん〜?」 「ちゃんと言ったことはないんでしょ?」 彼が誰に惚れているかなんて仲の良い私でなくても、同じ学年の生徒であれば多分ほとんどが知っている常識みたいなものだ。その事実は出会った当初から、そして今もまるで揺るがない事実だ。 自分で投げかけたはずのその言葉は、少し時間をかけて自分に戻ってくるブーメンランのようだ。古傷をピンポイントに擦りむいたようなえぐみの強い味がした。自分で自分の傷を抉る事に慣れてしまった私は、作り笑いが上手くなったのかもしれない。 「ほぼ言ったようなもんだけどね……」 「ほぼ言ったは、ほぼ言ってないでしょ。」 「だってトドメ刺されたら立ち直れないし…」 「山王戦の時の男気はどこ行ったよ?」 自分の投げかけた言葉がダイレクトに返ってきて、尚且つ彼のその本音でしかない心情は私が痛いほど自覚しているその感情とまるで同じだった。共感もしながら、絶望も感じる。彼の言う通りだからだ。その意見には共感しかない。 「てかってさ、」 「ん〜?」 「なんで俺のこと宮城って呼ぶんだよ?」 いつか聞かれるだろうと、ずっと構えていた言葉。 だからちゃんとそのアンサーを持ち合わせていた筈で、冷静に対処できる予行演習もした。彼以外に、周りの友人から何度となく聞かれたことがあったからだ。 何故そんなに仲がいいのに、宮城と呼ぶのかと。 「今更すぎない?それ。」 「そうなんだけど、でもなんか今更気になった。」 まさかこのタイミングで聞かれるとは思わなかった。ずっとその準備をしながらも彼からそれを聞かれることがなく数年が経過した今、最早聞かれることなんてないと思っていたのかもしれない。 「だって皆俺の事リョータって呼ぶじゃん?」 自分が彼にとってとても近しい友人でありながら、皆が呼ぶ彼のその名前を呼ばないのはちょっとした理由がある。とても自分都合でしかなくて、私はいつも自分に予防線を張る。昔からの癖だ。 「宮城は宮城でしょ?」 「なんだそれ。」 「宮城だって私のことって呼ぶじゃん。」 「あ〜……、まあそれはそうだけど。」 本当は呼び方を変えるタイミングなんて何回かあった。 委員会が同じになった高校一年生の一学期、休み時間も喋るようになった時、クラスの中でも多くが彼のことをリョータと呼ぶようになった時、その全てのタイミングを私は見送ってきた。やろうと思えばいくらでも出来たのに?時々自分にもそう語りかけてしまう。 「お互い様じゃない?これ。」 「そういうこと?」 「多分そういうことなんじゃないかな。」 「適当すぎない?」 「じゃあ今更呼び方変える?」 充分に近い彼とのこの距離に、時々勘違いしそうになる自分が苦しくなるから。皆から呼ばれているその彼の名前を紡ぐことでもっと近くなれるような気がして、特別になれたんじゃないかと思ってしまう気がして。 そう呼びたいと憧れながら、ずっとそれを飲み込んで生きてきた。 「それも違うか、やっぱ。」 「でしょ?」 何とか整合性のある理由で納得してもらえてホッと胸を撫で下ろした。そして、改めて彼がもう数ヶ月したら居なくなることを思い出す。それは私の前から居なくなるというだけのことではなくもっと大掛かりなことで、卒業と同時に彼が渡米することは決まっている。 「ちゃんとか言われたらそれこそこしょばいし?」 言っていて自分で墓穴を掘ったように苦しくなる。 彼にちゃん付けで呼ばれているのは結局彩子だけで、私を含めた他の女子も彼は例外なく名字を呼び捨てている。つまりそれは彩子だけが彼にとっての特例というとても分かりやすい例えという訳だ。 「ちゃんって柄じゃないでしょ?」 「いや、どんな柄?」 成就しない片思いを持ったまま渡米する彼にとって、きっと彩子は永遠になる。例えば大人になって、他の人と付き合って恋人になって結婚することがあったとしても。彼の中で彩子は永遠に輝き続けるだろう。 「でも呼び方で全てが決まる訳じゃないだろ?」 時々無防備な私に彼はこうしてジャブを打ってくる。その度に胸を高鳴らせて、そして心を潰す。期待をしてはいけないと、してもその先はないと言い聞かせるのにそんな願望と反比例するように彼を想う気持ちだけが加速する。 宮城にとって彩子が永遠になるように、きっとこのままだと私にとっても彼は永遠になってしまう。恋をした事によって恋がトラウマにならないよう、しっかりけじめをつけようとそう思った。 宮城が卒業と同時に渡米すると聞いたのは最終学年の二学期に入った頃だ。 私が少し背伸びをした大学を受験するとなんの脈絡もない話をした時、その答えとしてぽろりと呟くようなトーンでその事実を告げた。 だから思ったのだ。 この気持ちに区切りをつけよう。今までそうしたくても出来なかった私にとって、彼の渡米はきっかけになり得るとそう思ったのだ。三月、卒業式、笑ってきちんと見送ることで自分のことを納得させるつもりだった。 卒業と同時にこの恋は終わりにしよう。 渡米すると聞いたあの日、卒業式を区切りに全てを終わらせようと思った。今までずるずると引きずってきたのはそのきっかけがなかったからだ。だからきっと、今度こそ終わりにできる。 「急ですが宮城くんは進学の都合上卒業式を前に渡米する事になりました。」 頭上に重たい鈍器をぶつけられたような気分だった。 担任のその言葉にクラスの大凡は「え〜?」と言っていたので、そもそも渡米すること自体を知らなかったのだろう。本人から聞いていた私はその驚きはなかったけれど、その代わりにどうして言っておきながら最後は何も告げる事なく旅立ったのか? 結果として大凡のクラスメイトと同じ反応をしてしまった後に、きちんと終わらせることのできなかった自分の恋に途方もない感情に陥った。 「びっくりなんだけど……知ってた?」 卒業式、きちんと宮城の背中を見送って終わりにするつもりだった。日本からいなくなることを聞いた時、これでようやく自分を納得させられる諦める理由ができたと思っていたのに。 「どうかな……」 手順を踏んでしっかりと終わらせるはずだった三年の片思いは、終息地を見つけられず未だ彷徨っている。結局宙ぶらりんなまま、その感情は今もなお私の心にぶら下がったままだ。 卒業して、大学生になった。 まだ私の心の中には宮城がいて、そして彼は日本にいない。 Case2. アルバムのふたり |