Case2. アルバムのふたり 異国情緒あふれる街並みが続いている。 改めて異国なんだとそう思う。数十年ぶりに更新したパスポートでやってきた国はアメリカ合衆国、大学二年生になった春のことだった。語学の強い大学に入学した私に、半年のアメリカ短期留学の話が持ちかけられていた。 現地での生活費用を除くものが全て保証されている特例措置だ。 入学初年度の成績を元に上位数名だけがその権利を得る留学制度、驚きよりも喜びが強かった。この一年、選ばれるために最善を尽くしてきたからだ。 昔から語学に興味があった。 幼い頃、親の仕事の関係で暫くシカゴに住んだ事があったのがきっかけになっているのかもしれない。とてもぼんやりとした理由だ。けれど、目指すものが特別なかった私にとってそれは目標になった。 春休みに入る前、その知らせは私の元へとやってきた。 期間は半年。家の解約手続きを進めて、実家の自分の部屋に入りそうな分だけ荷物を送った。スーツケースに最低限の洋服と日用品を入れて、私はアメリカの地を踏んだのだ。幼少の頃から数えて、数十年ぶりとなる異国の地だ。 何かと物騒な国である事は知っている。 だから日本ではあまり履いていなかったスニーカーをわざわざ新調して、この国への入国に挑んだ。もちろんいつでもダッシュをかませる様に。変な人に追いかけられてもスニーカーさえ履いていればどうにかなる……はず。 「……へ?」 逃げる準備はしていたのに、逃げている場合じゃない。アメリカに無事入国して街に出て最初にした事は、物凄いスピードで走り去っていく男を追いかけるという想定外の出来事だ。 逃げることを想定しておきながらどうしてこの展開を想定していなかったのかと悔やまれるけど、今はそれどころではない。パスポートや財布が入った手持ちの鞄を擦られた。驚くほどのスピードで鞄は私の元を離れていく。 「ど………泥棒です!泥棒!」 必死になると英語はまるで出てこなくて、異国の地で初めて発した言葉は日本でも発した事のない単語だった。とにかく大声を出せば誰か気が付いてくれるかもしれない。藁にもすがる気持ちというのはこの事だ。 その声を聞いてか私の鞄を持ち去った大男を阻むように横から現れた青年が私のバッグを取り返す。正面衝突する形で尻餅をついた大男は一度ゴロンと転がった。 「……?」 聞き馴染みのあるその声に、急に風景が変わったような気がした。ここがアメリカであることを忘れてしまうような、そんな声だ。 「宮城?」 「なにしてんだよ?」 一年と少しが経っただろうか。何も言わずにアメリカへと渡った彼をもう随分と見ていなかったけれど、人はアメリカに来るだけで一回りか二回り大きくなるものなのだろうか。視界に映ったかつてのクラスメイトは随分と逞しい見た目をしている。 「うぉ、」 「………あ、」 ちょっとした隙をついて転がっていた筈の大男が逃げ去っている。私の鞄は地面に中身を散らしながら転がっているので、なんとか事なきを得たのかもしれない。けれどなんとなく逃げるものを見ると追ってしまうのが人の心理というもので。 「追いかけんなって!」 「で、でも!」 「危ないからマジでやめてって。」 その通り過ぎる言葉に一度冷静になって、歩みを止めた。追いかけたところでどうしようもなければ、追いつく筈もない。危機一髪のところでなんとか必要最低限の所持品も無事なのがせめてもの救いだけど、初日にして異国の恐ろしさを体感する羽目になった。 「一旦落ちついて。」 「……うん。」 「無くなったものないか一回確認してみ?」 「あ、そっか……」 転がった鞄の中身を彼と一緒に拾いながら、一つ一つ確認していく。暫く使う事はないだろうからと巾着の中に入れていたパスポートは無事、眼鏡も無事、実家と自転車の鍵がついたキーケースも無事。 「……アメリカでもあの自転車乗るつもり?」 「……乗りません。」 「ほんっと、そ〜いうとこあるよなお前。」 「面目ない……」 送料を考えても実家に送るのもどうかと思って近くに住んでいる友人にあげた筈だけど、多分私の自転車は使われる事なく友人の駐輪場で眠っているのだろうと思う。うっかり鍵を持ってきてしまった。つまり私は動かない鉄屑を友人に押し付けたことになる。 「全部ありそう?」 「たぶん大丈夫だと思う。」 「財布の中身見た?」 最後、転がっているピンク色の長財布を拾い上げる。 私の趣味じゃない色をした長財布は、もう使い始めて三年が経っていて随分とほつれている。妹の誕生日プレゼントを買いに行くからと彼と一緒に行った藤沢駅のデパートで買った財布だ。最後の最後まで彼が悩んでいたその財布を、私が買ったのを思い出した。 「まだその財布使ってたんだ?」 「あ〜うん、中々買い替えるタイミング難しくってさ。」 「ボロボロじゃん。」 「ほんとだね?」 趣味でも好みでもないその大切な財布を拾い上げる。ボロボロになっても買い替えるという考えがなかったことを彼の言葉で自覚して苦笑しそうになる。結局、きちんと自分の気持ちにケジメをつけられなかった私の気持ちが宙ぶらりんに今もなおぶら下がっている事をしっかりと証明しているようだ。 「……お金が、ない。」 過去の記憶から一気に現実へと脳が切り替わって、血の気が引いていく感じがした。 ホームステイ先に行くまでの二日間を生きていくために所持していたものがまるっと姿を消し去っている。両替した筈のお札は一枚もなくて、残っているのは一枚の二十五セントだけだ。 「やっぱそうだよな……あの時ちょっと油断したし。」 彼は少し気まずそうに髪をわしわししているけれど、本当にどうしたもんだろうか。今後のお金は後日親に連絡をしてなんとか工面できるものの、今日この一日を生きていくことが出来なければ私に明日はない。初日から絶望だ。 けれど絶望していても仕方がない。絶望しても状況が変わらない事は知っているので、前を向いて気持ちを切り替えないことには何も始まらない。ポジティブに生きないと損をする、留学するにあたって色々と面倒を見てくれた恩師の言葉を胸に強く刻んでいてよかった。 「久しぶりだね、宮城。」 「………は?このタイミング?」 「そういえば挨拶してなかったし?」 「マイペースだよな、お前って。」 そう言って少し笑った宮城がなんだか懐かしくて、笑ってられる状況でもないのに私までつられて笑ってしまう。教室でくだらない話をしながら苦笑いする少し前の彼の姿と重なったような気がして。笑った後に、少しだけきりりと胸が痛んだ。 「二十五セントで何かできるかな?」 「世の中そんな甘くないだろ。」 「だよね。」 キラリと輝くコインを親指と人差し指に挟んで、夕焼けが差し込む空に翳して見てみる。二十五セントではホテルに泊まることは愚か、今日の夕飯にありつくことすら出来ない。あまり賢くはないけど、それくらいは馬鹿でも分かる。 「てかそもそも何でいんの?今日来たみたいだけど……」 「留学。」 「留学したいなんて言った事あったっけ?」 「ん〜、多分ないかな。」 昔からよく「そんな事言ってたっけ?」とそう言われる気がする。あまり自分の事を話すのが得意じゃないのかもしれない。周りの友人が誰が好きで、誰と付き合って別れて……そんな話を一方的に聞いてばかりいた気がする。 高校生活の全てを同じ人に恋していたのに、私は本人に伝えることは愚かそんな感情を仲のいい友人にすら言ったことがない。青春の一ページには、酷くほろ苦い思い出だけが刻まれている。その張本人である彼を、とても近くに感じながら。 「いく当てあるの?」 「明日になったらホームステイ先の人が迎えに来てくれる。」 「じゃあ今日は?」 「……野宿?」 「さっきあんな目にあったのにほんと懲りないな。」 ポジティブに生きないと損をする、そんな言葉を胸に刻んで遠い地までやって来たけど普通に凹む。というかこの状況に凹まない人がいれば教えて欲しい。不可避だからしょうがないけど、野宿が不可避なのは流石にどうにかしたい。 真っ暗な絶望の中で、唯一知っている彼の存在だけが救いだ。彼がいなければそもそも私はキーケースもパスポートもなく裸一貫でこの物騒な街で絶望を味わっていたのだから。絶望のちょっと手前の絶望で済んでいるだけまだマシだ。ポジティブ……思考はポジティブに!ポジティブは考え方次第!考え方で世界は変わる! 「不本意かもしれないけど……とりあえず今日はうちに泊まりなよ、こっから割と近いから。」 絶望は割と手早く切り替わるものらしい。やっぱりポジティブシンキングが功を奏す国なのかもしれない。彼からこんな神様のような言葉が降りてこなければ、私に明日はなかっただろうと思う。異国の地で震えながら眠れぬ夜を過ごす未来しかなかった筈だ。 「…とても助かります。」 バスに乗り込んで三駅、街の景色が少し落ち着いたところで下車した。 バスを降りてから彼の後をついていくと、日本の規模感からは考えられない建物が姿を現した。遠い昔の記憶を掘り起こしてなんとなく予測はついていたけれど、アメリカのスーパーは馬鹿みたいに広い。しかも平屋だ。駐車場だけで千葉にあるアミューズメントパークが丸々入りそうな広さなので改めて唖然としてしまう。 「パスタでもいい?」 「……食べられたら最早なんでも。」 「じゃあ今日はパスタね。」 とんでもなく広い敷地を歩きながら、日本では見かけない色をした食品を横目に進んでいく。どの食材も規格外の大きさをしているので、改めてここが日本ではない事を実感する。 慣れた手つきでカートの中に食材を入れていく宮城は、ぴろっと出ている紙をちぎってカートの中に入れている。アメリカのスーパーでは各ブース毎にクーポンが設置されているのが普通らしい。 「二十五セントしかないけど何か役に立つ?」 「いや、無理でしょ。」 「だよね?」 カートを押しながらレジに並ぶ。日本のスーパーとはまるで勝手が違って、アメリカのレジはベルトコンベアーのように物が流れていく。文鎮のようなものを置いて、次の人との境界線を設けているらしい。これも確かに記憶を遡ると存在している私の知るアメリカだ。 「あ、待った。」 「なに?」 「その二十五セント役に立つかも。」 何を言い出すのかと思えば、私が握りしめているそのコインを奪い取られる。買い物の足しにするのかと見ていればそうではないらしい。買い物籠を押して袋詰めをするために荷物置き場に買い物袋を置いた彼は、そのコインを私に一度見せつけて、数歩進む。 「そういやこれ、ワンコインでできるわ。」 コインが飲み込まれるようにガシャンと音を立てて消えていく。代わりにぐりぐりと回された後には小さなカプセルが出てくる。私のなけなしの二十五セントは、よくわからないキャラクターのミニフィギュアに変わっていた。 「役に立ったんじゃん?」 「……随分不細工な顔してるね。」 「まあ、ご愛嬌ってやつ。」 凹んでいる私に、二十五セントしか持っていない私に、ちゃんとその意味を与えてくれた。それはとても不細工で、目があっちの方向を向いている意味の分からないフィギュアだったけれど。とてもアメリカらしい見た目といえばその一言に落ち着くのかもしれない。 「アメリカ初日の記念。」 ん、そう言ってそれを差し出された。 多分、私は宮城のこういうところを好きだったのだろうと思う。ぶっきら棒なくせに、どこか優しくて思いやりがある。そんな暖かい心遣いができる宮城が好きだった。随分と久しぶりにそんな事を思い出した。少し、苦しい。 通された彼の部屋はとてもシンプルで、あまり物がない。 「練習帰りだから先シャワー浴びてもいい?」 「はい、ごゆっくり。」 「適当にくつろいでくれていいから。」 「うん、ありがと。」 アメリカの家はびっくりする程壁が薄くて、シャワーの音まで聞こえてくる。無駄にドキドキするから出来ればやめて欲しい。たまらずテレビをつけると、日本でも放送されている人気アニメが映っていた。少しだけ気持ちが落ち着いた気がする。 本当にシンプルで、あまり物がない部屋を見渡してみると不自然に置かれた四角い物体が目に入った。立ち上がってテレビ台に置かれているそれを手に持ってみると、とても見覚えのある文字が目に入る。 卒業アルバムだった。 卒業式を待たずして渡米した彼がどうしてこんなものを持っているのだろうか。一瞬不思議に思って、安田くんあたりが気を遣って送ったのだろうと推測がついた。 卒業式の日に一度見たきり、私はそれを見ていない。 なんだか見てはいけないものを見ているような気分に陥りながら、それを手に取ってみる。パラパラと捲っていくと懐かしい校舎と、そして見覚えのある顔がずらりと並んでいる。一年ほど前のことなのに、制服を着ていた自分が酷く懐かしい。 「そうだった……」 本当にそうだった。卒業してから一度たりとも開くことのなかったアルバムには、懐かしい思い出と、ちくりと痛む事実が映り込んでいたのを思い出す。見返すことがなかったのは、自分の傷を抉らないためだ。 無造作に置かれていたそのアルバムには、卒業旅行で一緒に写真に収まっている宮城と彩子がいた。私には見せない、そんな顔がそこにあった事を思い出した。 Case3. 好き、を数えてみた |