Case3. 好き、を数えてみた 普段あまり笑わない宮城の笑顔が好きだった。 少し重たそうな瞼がバスケをしている時はくりっとその全貌を見せるように生き生きと輝いて見えて好きだった。 彩子だけに見せるとっておきの表情が好きだった。 英語のレッスンを受ける。レッスンと言ってもここはアメリカの大学だ。レッスンも何もそもそもの会話が全て英語だ。日本にいた時から文法はもちろんヒアリング、スピーキングとしっかりと基礎知識を入れ込んで留学に挑んだ筈だった。 実際、日本で英語ができるレベルと言っても底が知れているということだ。ネイティブの英語は想像以上に難しい。 元々人より英語は出来るという自信はあったし、大学に入ってからは留学の特待生に選ばれるくらいには勉強した。かなりの下準備があった私でこの有様なのだから、宮城は渡米してばかりの頃はどうだったのだろうと考える。 卒業と同時に渡米する事が決まっていた宮城が、英語の授業に力を入れている様子は特別感じられなかった。いつものようにぼうっと前を眺めているか、見ているこちらがヒヤヒヤするくらい堂々と眠りこくっているかの二択だ。テストの点数も芳しくはなさそうだった。 「おいって。」 「……ん?あ、宮城、もう来たんだ。」 「もう来たんだ?じゃないだろ……」 大学のオープンスペースで今日の復習をしていたタイミングで声をかけられる。多分一番ぼうっとしている時間だ。留学生としては失格だ。横文字は中々すんなりと頭に入ってこない。 「あんまボケっとすんなって。」 「ボケっとしてた?」 「ただでさえ日本人は狙われるんだから気つけろよ。」 「はあ〜い。」 私の生ぬるい返事に宮城はハァと一度大袈裟に息を吐いて私の隣の椅子に腰掛ける。アメリカに来て彼もジェスチャーや言動が大きくなったのかもしれない。 アメリカに来て二ヶ月が経っていた。 プレップスクールを出た宮城はその後大学へ編入して、今は私と同じ大学二年生だ。一週間に一度、私たちはこうして私の通う大学のキャンパス内で落ち合うことになっている。毎週木曜日の練習場所がうちの大学の近くらしく、一時間ばかりコーヒーを啜って他愛のない話をする。 「ほんっと本場の英語って難しくて心折れる。」 「それはマジで分かる。」 「なんだ、じゃあ宮城も最初は大変だった?」 「そりゃね?喋れないとそもそもチームに所属するのも難しいし……プレップスクールの一年は多分人生で一番勉強した。」 「へえ〜、宮城がね?」 高校の時からは信じられない光景に不思議な気持ちになる。けれど事実、私は一週間分の分からなかった部分をノートにまとめて、宮城に聞いている訳なので彼の言っていることが嘘ではないと証明されている。 彼にはとても一途なところがある。 それはバスケにしても、彩子のことにしてもだ。ただひたすらに、真っ直ぐに。他のことに気を取られることなくとても高い集中力で前を向く。元々はとても後ろ向きだったと彼は自分でそう言うけれど、多分その一途さは昔から彼に備わっていたスキルなのだろうと思う。 きっと語学のことに関しても同じように取り組んだのだろう。そうでなければ一年と少しでここまでネイティブな英語を習得することは難しい。私がずっと密かに努力をしてきた数年を、ゆうに超えているのだから。 「ホストファミリーは?」 「ん?」 「よくしてもらってるの?」 アメリカに来て二ヶ月、とても恵まれた生活をしていると我ながらそう思う。 絶望を味わいかけたところから始まった留学生活は、それ以降逆に心配になるほどとても穏やかだ。家族仲のいいホストファミリーに恵まれ、大学でも仲良くしてくれる友人ができた。そして、気心の知れた宮城がとても近くにいる生活。 「ふふ…なにそれ?」 「なんでそこで笑うんだよ。」 「なんかお母さんみたいだから。」 そもそもあの絶望を味わうきっかけがなければ彼とこうして再会することはきっとなかっただろう。ともなれば、寧ろ私はそのきっかけに感謝すべきなのだろうか?随分と怖い目にあった訳だけれども。 「……もう心配してやんね〜し。」 「うそうそ、ごめんって。」 幼い頃にアメリカに住んでいたのがきっかけだった筈だ。 高校時代英語だけは頑張ったことも、語学の強い大学に入学したことも、その中でも選ばれし者しか行けない留学を目指したことも……本当に、昔アメリカに住んでいたというぼんやりと輪郭の見えないそんな理由だけで必死になれただろうかと考える。 「宮城とのこと話したら、ワァオって言ってた。」 「まあ、確かにワァオではあるわな。」 「今度挨拶したいってママ言ってたな。」 「……いいって、そういうのは。」 いつから具体的に語学に向き合い始めたのかを考える。 それはなんとなく周りが受験勉強を始めたあたりの高校二年生の頃だったような気がする。周囲に流されて生きてきた私にとって、それを始めるのもまた必然の事だったのかもしれない。その中でも得意だった英語を武器にしようと思った。 「そういえばってなんで留学したの?」 「なんでって……したかったからなんじゃない?」 「なんで自分の事なのに疑問系だし。」 「ん〜、言われてみれば深く考えた事なくてさ。」 「いやそこは深く考えるだろ。」 深くは考えず、けれどがむしゃらに頑張ってこれたのはなんだったのか。辿っていって、なんとなく思い浮かぶことがあって必死にかき消そうとした。 本当はずっとなんとなくその正体を知っていて、けれど認めたくなかった。それを認めることは私がしようとしていた事とまるで相反しているからだ。だから本当は知りながらも、気づかないように自分で蓋をした。 「すごく小さい頃にシカゴに住んでたんだ。」 「は?てかそれも初耳なんだけど。」 「あれ、そうだっけ?」 「そうだっけじゃないでしょ、そうだから。」 「そっか、ごめんごめん。」 「掘れば掘るだけ出てくるなマジで……」 「遺跡のはなし?」 宮城がアメリカに行く。それを知ったのが本当のきっかけだった。 彼の留学の話が出た時、それをきっかけに自分の恋を終わらせる理由にしようと思った。卒業を待って、ちゃんと終止符を打とうとした。それは私の紛れもない本音だ。だから、話の辻褄が合わなくなる。 終わらせるつもりでいながら、自分も同じ方向を見てしまったから。 その先に希望も、万が一にも可能性はないと私自身が一番よく知っている筈なのに。知っているからこそ終わらせようとそう思ったのに。人間は時々理に叶っていない行動を起こすものらしい。だからどうしてもそれを認めたくなかった。 「俺さ、」 「ん?なに。」 「結構の事知ってると思ってた。」 その言葉に、咄嗟に言葉が出てこなかった。そうだねとも、そんな事ないよとも、そのどちらも正解じゃないような気がして。ただ私自身が自分の事を話していないだけなのに、なんだか少しだけ宮城の瞳が複雑そうに揺れていた。 「もっと教えてよ。」 「……なにを?」 「のこと、教えて。」 教えてどうなる?知ってもらってどうなる?考えて、やっぱりすぐに言葉は出てこない。教えれば教えるほど、知ってもらえば知ってもらうほど、自分の首を締め付けそうな気がして。 アメリカに来て二ヶ月、私は少し思い違いをしていたのかもしれない。 日本にいた時より会う頻度は少ないけれど、その分その短い時間がとても密接で、そして特別だったから。もっと宮城と近く、そして自分が特別になったような気でいたのかもしれない。 終わらせることができなかった恋を忘れた訳でもないのに、日本にいた時よりも自然体で一緒にいられるこの空間がとても特別だった。苦しさよりも、一緒にいる楽しみの方が勝るようになっていたから。 もう恋心には踏ん切りがついて、仲のいい友人として彼のことを見れているような錯覚をしていたのだ。でも、それは本当にただの思い違いでしかない。 どうしてこうまで必死に頑張って留学するに至ったのか、その理由を明確に自覚しながら。確かに変わることなく緩やかに鼓動を打つ心臓はあの頃と何も変わっていない。 以前と違うのは、そこに彩子がいないというその一点だけだ。だからきっと思い違いをしていたのだろうと思う。高校時代常に目線で追ってしまう彩子が彼の視線の先にはあって、今はそれがここにはないだけで、宮城は今も彼女を思っているだろうから。 離れている分だけ、より自分の気持ちが確固たるものだと気づいたんじゃないだろうか。少なくとも私自身がそうだったからだ。見送ることなく宮城と離れて分かったのは、結局自分の気持ちが確固たるものだったということ。 卒業式をきっかけに恋を終わらせようとしたものの、結局彼が卒業式まで日本にいてきちんと見送ったとしてもこの気持ちに終幕を打てたのかと言えば、多分そうじゃないだろうと思うから。認めたくなくて、ずっとそのきっかけがなかったからだと自分に言い聞かせて、誤魔化してきた。 「お互い様なんじゃないかな?」 いつかに同じようなことを言った気がする。きっと、私はこのどっち付かずな表現が得意なんだろう。どっちの答えも含んで、そして含まない卑怯な言葉だ。 「じゃあ俺のことももっと知ってよ。」 「……例えば?」 「次の試合、日程合えば観にこない?」 何気ないひと言も見逃さず、ちゃんと拾ってくれる。ちゃんと私と向き合って、私を知ろうとしてくれる。そして自分のことを私にも教えてくれる。 宮城のことなんて本当はよく知ってる。何かと比較することなんて出来ないけど、分かりすぎるほど分かってる。その優しい心も、口では違うことを言いながらどうしようもなく面倒見がいいところも、困ってる人を放っておけないことだって全部全部───だから、好きになった。 「車出して貰えないか聞いてみるよ。」 入国初日からあんなことに巻き込まれた私をきっと彼は放っておけない。それは私が持つ感情とは違う、別のものだ。アメリカに来て忘れていたあのえぐみの強い痛みを久しぶりに思い出した。 「今度向こうの通りに新しく店できんだと。」 「へえ?」 「その時は晩飯いらないって言っとけよ?」 「随分強引なお誘いじゃん。」 「まあ、たまにはいいでしょ。」 やっぱりこの恋はもう終わりにしよう。 他の誰のためでもなく、自分のために。 どう足掻いても今まで消し去ることができなかったのにどうやって?自分でもその方法が分からない。けれど、いつまでもこんな事を続けて生きていく訳にもいかないだろう。きっかけは待つものじゃなくて、自分で作るものだから。 あと四ヶ月もすれば日本での日常が始まる。その日常に、宮城はいない。 彼のいない日常を生きる為に、全力で今の生活を充実させて日本に戻ろうとそう思ったのだ。ほろ苦く辛い思い出になってしまった高校時代があったのなら、このアメリカでの生活をきちんと楽しい思い出に変えればいい。 「そろそろ迎えくる時間なんじゃん?」 「あ、ほんとだ!もう来ちゃってるかも。」 「じゃ行くか。」 立ち上がってキャンパスを出る。いつもの待ち合わせの時間を少し過ぎてしまった。もしかするととても心配しているかもしれない。小走りで目的地へと向かうと、急に足元が緩くなって立ち止まった。 「ん?どうした?」 「靴紐とれた。」 「毎回靴紐とれてない?」 「縦結びになっちゃうんだよね。」 今まであまりスニーカーを履いてこなかったからだろうか。どう頑張っても私の靴紐は綺麗な蝶々結びにはならなくて、縦に八の字を描く。きっと正しくない結び方なんだろう。だから頻繁に靴紐が取れる。 「の事一つ知れた。」 「なにを?」 「靴紐結ぶの下手くそだって。」 ふはっと独特な笑い声を漏らしてからしゃがみ込んだ宮城は、私の靴紐をギュッと引っ張ってから綺麗な蝶々結びを作ってみせる。ついでに取れかかっていたもう一つの靴紐も同じようにして、はいできた!そう言ってポンと私の肩を叩く。 普段あまり笑わない宮城の笑顔が好きだった。 彩子だけに見せるとっておきの表情が好きだった。けれど同時に、私だけにしか見せないこんな宮城の表情が好きだった。 とてもとても、好きだった。 Case4. 未完成の想い |