Case4.
未完成の想い


 随分と耳が良くなったような気がする。
 聴力の話をしている訳ではない。英語に対しての抵抗が和らいだという意味で、一度頭の中で日本語に変換してから噛み砕くというその作業が随分と無くなった。アメリカに来て五ヶ月が経っていた。
 語学力も安定して、周りと会話することも増えた。会話が増えると、気持ちも明るくポジティブになる。ポジティブになると、自発的に色んな人と交流を持つようになる。
 日本にいた頃の自分にはない一面だ。酷く後ろ向きで、どこか内向的だった自分が少しずつ変わっていくのを感じていた。ポジティブに生きないと損をする、そんな恩師の言葉の意味がよりリアルに感じられる。
 相変わらず宮城とは週に一度、大学のオープンスペースで他愛もない話をする関係性を続けている。
 授業で分からなかったところをまとめていたノートは徐々に少なくなって、留学して五ヶ月が経った今、そのノートの出番はほとんどなくなっていた。彼との会話の内容も、少し変わったような気がする。
「そしたらさ、何て言ったと思う?」
「何て言ったんだよ?」
「それを聞いてるんじゃん、ノリ悪いなあ。」
 友人との交流が増えた分、彼に話すことも増えた。今日一日の出来事、この間面白かったこと、誰が何をしてどうだったか。以前にはなかった会話だ。
 異国での慣れない生活の相談をしたり、時々宮城のバスケの話を聞いたり、思い出したように日本にいた頃の昔話をしたり。その会話の主語は全て私と宮城の二人だけだ。ただお互いのことを情報交換しているだけの、とても狭い世界。
「最近随分楽しそうじゃん。」
「そう?」
「うん、前よりよく話すし、よく笑ってる。」
「へえ〜、そうなんだ。」
 気づいたら私が話しているターンの方が多くて、喋りすぎただろうかと一度立ち止まる。ここ最近、宮城はあまり機嫌がよくないようだった。何故機嫌が悪いのか?そんな不躾なことをダイレクトに聞くほど子どもでもなくて。
 どんな話をすれば彼を楽しませられるのだろうか。そう考えて、彼と会っていない一週間の間に起こった面白い出来事を記憶から引っ張り出してみても、彼の表情はどこか宙を見ているようにあちらの方を向いたまま私の方にやってこない。
「宮城は最近なんか面白いことあった?」
「別に、ふつう。」
「普通って……バスケの話とかさ?」
「だから普通だってば!」
 会話の歯車が噛み合わないことが増えた気がする。ここ最近如実に感じるのは、私と宮城の温度差だ。どこか心ここに在らずという感じで、私が話し始めるとより無愛想になっていく。
 何か上手くいっていない事でもあるのだろうか。聞いてみたいような気もして、けれどそこは日本にいた頃から成長していない私が一歩を踏み出さない。自分の知らないところで人の傷に触れてしまうのはとても怖いから。
「……今のはごめん。」
「あ、ううん。ごめん深入りしすぎた。」
「そんな事ないけど……」
「そう?」
「うん。」
「そっか、ならよかった。」
 自分が上手くいっている時ほど、人のことが見えなくなる。私は今、彼のことがよく分からない。何を間違えてしまったのだろうか。最初はこんな感じじゃなかったのに。そもそもこうして毎週木曜日会うようになったのは何故だったか?
 右も左も分からない状態の私を気遣ってくれた宮城の好意から始まった木曜日のルーティン。それは彼が毎週木曜日だけは練習場所がうちの大学の近くになるという前提があって、その上に色んな要素が重なっていた。
 留学したてで心細い私に寄り添って話を聞いてくれたのも、授業で分からなかったところを教えてくれたのも、これだけ広いアメリカという国で唯一私の知り合いでいてくれたのも。私がずっと恋焦がれてきたそのひとだ。
「……向こうの通りの店さ、」
「うん?」
「今日見たらもうオープンしてた。」
「ついに完成したんだ?」
「そう、だから明日行かない?」
 いつ完成するのかと思ってはいたけれど、ようやく完成したらしい。私が渡米して二ヶ月目に新しい店ができると噂になってから実に三ヶ月が経っていた。私がアメリカにいる内に完成しないんじゃないかとそんな事を思っていたので、すっかり忘れていた。
「明日ってまた急だね?」
「あ〜、明日練習早く終わる予定だから。」
「でも明日練習場所こっちじゃないよね?」
「うん、だから十七時に迎えにくる。」
 思えばこの五ヶ月という決して短くはない留学生活の中で、木曜日以外で彼と会う事はほとんどない。私がアメリカに来た初日を除いては、逆に一度足りとも欠かす事なく毎週木曜日だけはこうして短い時間を一緒に過ごした。
「迎えの時間ずらしてもらうように言っとく。」
「平気そう?」
「うん、多分大丈夫じゃないかな。」
 アメリカでの生活も、あと一ヶ月のタイムリミットを切っていた。





 ここ最近授業が終わると何人かでお茶をすることが多い。もちろんここはアメリカなので茶をしばいている訳ではなくて、コンビニでちょっとしたお菓子と一緒にコーヒーを啜りながら話をする。
 現地の学生とも仲良くなって、そのお陰もあってか三ヶ月目以降随分と英語が上達したような気がする。アメリカに留学した本来…というよりは表向きな理由としてはまずまずの合格点だろう。日本に帰るのが少し名残惜しい。
 一緒に話していたうちの一人の迎えが来て、別途声をかけられる。
 帰る方向の近い友人だった。せっかくだから一緒に帰ろうと言うのだ。こちらではカープールと言って、特別珍しいことではない。実際その友人の車に乗って何度かホームステイ先まで送ってもらった事もあったので特別断る理由もない。
 金曜日、十六時過ぎ。私は車に乗り込んだ。
 途中買い物に寄るからと大きなショッピングモールに立ち寄って、そこからうちのホストファミリーにも一緒に乗せて帰る事を電話してくれるという事だった。時間を気にせず、こうして買い物をするのは随分久しぶりな気がする。
 普段あまり出向いた事のないスーパーには珍しく日本の食材が置かれている。蕎麦、うどん、ラーメン。そう言えば高校時代、彼がよく三井先輩と一緒に部活帰りにラーメンを食べていたと思い出して思わず手に取った。
 次会った時、渡したら喜んでくれるだろうか。
 そんな事を思いながら自分用と合わせて二つレジに置いて購入した。少なくとも話のタネにはなるような気がして。ここ最近あまり日本にいた頃の話をしていない事に気がついた。
 ホームステイ先に車が止まったのは十九時前だ。
 思ったよりも遅くなってしまったと慌てて家の扉を開くと、私は想定外の言葉をかけられて思わず首を傾げる羽目になる。
「随分と早かったのね?」
「……そうかな?」
「だって“ミヤギ”とご飯に行ってたんでしょ?」
 一気に肝が冷えて、パニックに陥りそうになる。すっかり宮城との約束を忘れていたのだ。今日の授業が終わるまではしっかりと覚えていたのに、気が抜けている間に声をかけられてすっかりその事が頭から抜けていた。
 毎週木曜日だけは先約があると宮城の存在を知っている友人も、まさかそんなイレギュラーがあるとは知らなかったに違いない。
 時計はちょうど十九時を指している。宮城と待ち合わせをしてから既に二時間が過ぎようとしていた。
「ママ今から車出せる?」
「今からって…どうして?」
「ちょっと忘れ物!」
 ホームステイ先から大学までは四十五分、凡そ一時間弱かかる。これからどれだけ車を急いで走らせても着くのは八時前になる。連絡手段はいつかに貰った宮城の固定番号だけで、試しにかけてみたけれどコール音が鳴り続けるばかりだ。
 窓の先を見るとちょうど雨が降り始めているようだった。
「お願い!」
 普段あまり自己主張をしない私の必死の願いにイエスと言わざるを得なかったのか、なんとか頼み込んで私は再び車に乗り込む。助手席から見えるワイパーは、徐々に速度を上げて右へ左へ雨を避けている。
 道が混雑していたのもあって、大学に着いた頃には二十時を超えていた。
 忘れ物をとってきたらすぐに帰ってくると車の中にホストファミリーを残し、いつものオープンスペースへと急ぐ。傘をさす余裕なんてなくて、パーカーについていたフードを被って目的の場所へと急ぐ。
 真っ暗ないつもの待ち合わせ場所には薄らと人影が見えた。
「……宮城、いるの?」
?」
「ごめん、私一回家に………」
 言い訳をするつもりなんて毛頭なくて。ただ純粋に謝りたくて。それなのにその言葉を最後まで言うことはできなくて、今まで感じた事のない物理的な衝撃が私の体を覆っていた。
「……宮城?」
 そもそも待っている訳がないと、そう思っていた。
 約束の時間は十七時で、今は二十時を過ぎている。約束から三時間も遅れた上に、頭上からは大粒の雨が突き刺すように降っている。きっと私なら三十分が経ったところで帰るだろうと思うから。
 そこに彼の姿はないと思いながらも、自分の失態に居ても立っても居られなくなった。そこに彼が居るか居ないかは実際のところあまり関係がなくて、勝手に体が動いていた。
 約束を忘れておきながら?と自分自身でも呆れてしまいながらも、どうしても会いたかった。友人と買い物をしていても、結局思い出すのは彼のことだったから。こんな事で関係が終わってしまったらどうするのか、そう思うと無茶を申し出てでもここに来る未来しか私にはなかった。
「再会した時の事思い出して………またどっかで危ない目に遭ってんじゃないかと思ったから、よかった……」
 怒るどころかこの上なく私のことを心配してくれていたその事実に言葉が見つからない。ばくばくととても煩く脈を打つ彼の心音が筒抜けになるくらいのこの距離感も未だかつて私たちにはなかった距離感だ。それに呼応するように、私の心音も煩く血が巡回する音を鳴らしている。
「……ごめん。」
「あんま心配させんなって、マジで……」
「ほんと、ごめん。」
 この時ばかりは普段世間体とか色んなことを考えてからしか動けない私も本能的に体が動いてしまった。一度抱きしめられた後に、ちゃんと会話を交わした後にもう一度それ以上に強い抱擁があったから。思わず私も広いその背中に手を伸ばした。
 伸ばしておいて冷静になって、一度体を剥がした。
「……もしかしてずっとここにいた?」
 それは私が聞きたかっただけの言葉。三時間も遅れてきたのにここにいたその事実を、彼の口から聞きたかったただの私のわがままだ。こんな暗闇の中で、しっかりと雨に降られている彼から出てくる言葉がどんなものかなんて、流石の私でもわかりきっているのに。
 どうしてもその言葉を聞いてみたかった。
「行き違いになるかもしんないだろ?」
「じゃあ私が来なかったらどうするの……?」
 その言葉に明確な返答はなくて、その代わりにもう一度体を引き寄せられて、とてもごつごつと筋張った腕に捕まっていた。もうそれだけで充分な筈なのに、人間はやっぱり欲深い生き物だ。常にもっと高みを望んでしまうのだから。
「友達同士はこんな事しないよ?」
「………ここアメリカ。」
「嗚呼、そうだったね。」
 雨に降られた体は冷えている筈なのに、不思議と寒くはない。密着したその体を離すことができない。離れないといけないのに、どうしても離すことができなかった。
 アメリカで過ごす木曜日も、あと僅かだ。  



Case5.
夜を飛び越えて