Case5. 夜を飛び越えて 新しく向こうの通りに出来たハンバーガーショップのハンバーガーの味は、なんだかよく分からない。私がよく味の分からないそのハンバーガーに齧り付いたのは、あの雨の日から約一週間が経過した次の木曜日のこと、つまりこれは現在進行形の今の話だ。 「で、どうよ。」 「ん?なにが。」 「ハンバーガーの感想でしょ、普通に考えて。」 「あ〜、うん……顎が外れそう。」 「その感想じゃね〜んだわ。」 とても縦に高さを嵩張らせているハンバーガーはどう食べるのが正解なのかよく分からない。あまり味の情報が入って来なかったのはそのせいなのかもしれない。さすがハンバーガーの本場、大きさがとんでもなく規格外だ。 「美味しくなかった?」 「ううん、このチリビーンズ美味しいよ?」 「ポテトのソースの話かよ……」 「えっと……これも違ったか。」 会話があまり噛み合っていないのは自分でも分かっているし、間違いなく宮城も感じているだろう。相手の顔を見ずに話す事がこんなにも大変だったとは知らなかった。 今日彼と会ってから、まともに顔を見れていない。 あの日の出来事を思い出して、その意味を考える。あの僅かな時間だけは、自分が物語の主人公になったような気がして……主人公であって、そしてヒロインになったような錯覚に陥った。 少し時間をおいて帰りの車の中で考えた。 こんな平凡でなんの特徴もない自分が物語の主人公になることもなければ、もちろんヒロインになんてなれる筈もない。だから期待を持ってはいけない。そんな事は十六歳のあの頃から私が一番よく知っている事だったはずなのに。 「なんかさ、」 「……ん?」 「この間までと打って変わって大人しいじゃん?」 「ハラペーニョのピクルスも美味しいね。」 「話噛み合わないにもほどがあんだろ……」 チラチラと時々宮城からの視線を感じて、余計と視線を泳がせてしまう。 合わない視線の理由の二割はこの間の雨の日の出来事で、もう八割は別の理由だ。これから彼に告げるその言葉をどのタイミングで言えばいいのか、どんな顔をして言えばいいのか。そんな事を考えると視線はどこまでもすいすいと色んな場所へと泳いでいく。 「……もしかしてこの間の事気にしてる?」 「この間って?」 「いやさ……普通このタイミングでそれ聞く?」 私たちはつい先ほど席について規格外のハンバーガーに口をつけてばかりだ。つまりその話題を出すにはまだ少し早い。 伝えるべき明確な言葉を持っているのに、それを今すぐに伝えることができないなんとも言えない感情はとても表現し難くて。さらっと言ってしまえばそれでいいのかもしれない。もしそれが私に出来るなら、の話でしかないけれど。 「じゃあこのタイミングだから言うんだけど、」 腹が据わって、ようやく宮城の顔をまともに見られた。視線が合ったその先にいる宮城も若干の気まずさを残した、そんな顔をしていた。バツが悪いと言うか、例えるならそんな感じだ。 「来週の木曜日パーティーやるんだ。」 「なに、誰かの誕生日?」 「ううん、別に誕生日とかじゃなくて。でも隣のお家のお兄さんとかお姉さんも来てさ、……あと犬も来るんだけど。」 「犬の情報必要だったか?」 「和むかと思って一応言ってみた。」 なるべくいつも通りのテンションで言おうと思っていたら、なんだか漫談みたいになってしまった。けれどそれくらいのテンションでやっぱり正解なのかもしれない。しれっと何事もなかったように。それが当然のことのように。 「だから宮城とは今日で会うの最後。」 「……は?」 「あ、ハラペーニョのピクルス欲しかった?」 「いや、聞いてないんだけど。」 「うん、そうだね。」 「そうだねってお前さ……」 「だって言ってなかったから。」 知らなくて当然だ。このパーティーが開かれるのは昨日決まったことだからだ。私の脳内でだけ開かれる架空のパーティーなので、手取り早く言ってしまうと程のいい理由をでっち上げたのだ。 それが最善だと思ったから。重々しくなく、さらっと伝える為にどんな言葉でそれを伝えようか、事前に用意された言葉を添えて。 「私の送別パーティーだから早く帰らないと。」 「そうじゃなくて……ちゃんと説明してよ。」 「留学を終えて日本に帰るそれだけの事だよ。」 「なんで先にそういうの言わない訳?」 「はは、私そういうの抜けてるじゃん?」 なるべくいつも通りに、できれば湿っぽくならないように。これが彼との最後の思い出になるのであれば、できれば笑顔で終わらせたい。それは誰でもない自分の為であって、これから前を向いて生きていくために。 ほろ苦かった思い出を、楽しくて綺麗な思い出に塗り替えたくて。 「……いつだよ?」 「さあ、いつだったかな。」 「隠す必要ないだろ?」 「どうだろう。」 今日という日で終わりにしたかった。高校に入学してから何度も終わりにしようと思いながら、遂にこの歳になるまでそれは達成されずに私について回った。だから今度こそ本当に終わらせないといけない。終わりを作らないと、いつまでも自分の中で終わらせる事ができないから。 「宮城だって同じ事したでしょ?」 別れの挨拶をすることもなく、私の覚悟が決まるのを待つこともなく、何も言わずに飛び立ってしまったから。だからこれはお互い様だ。何度か私が使っていたその言葉がようやくフィットしたように、自分の中で腹落ちしていく。 「それは……湿っぽい感じになる気がして。」 「一緒だよ宮城。」 私がアメリカに来たのは留学という目的があって、そしてそれは半年というタイムリミットの存在する限定的なものでしかなかった。それは宮城とあの場所で再会していても、いなくても。その事実は変わらない。その時が来たから帰るというだけのことだ。 「私もそれ一緒だから……、だからだよ。」 きっとバスケの練習を抜けてでも私を見送りに来るだろうから。寧ろ来ない訳がない。だから今日で最後にしたほうがいい。私がアメリカで習得した笑顔でいられる、今のうちに。 「だから今はハンバーガー食べるのに集中しよっかな。」 「どういう理屈?」 「宮城と食べる最後の味、噛み締めとかないと。」 アメリカに来た初日、馬鹿みたいに広いスーパーで一緒に買ったパスタがナポリタンとして出てきたのを思い出す。それはアメリカの味というよりはよっぽど日本の庶民的な味だったこと。少し塩胡椒の効き過ぎたそのナポリタンの味が忘れられない。 アメリカでの、最初の味。 「半年ありがと、宮城。」 お世話になりましたと続けて、本当の言葉はハンバーガーと一緒に飲み込んだ。 ───さようなら。 アメリカで過ごす最後の夜は、いつもよりも少しだけ早くベッドに入った。寝る前のベッドはシンとしていて、そしてちょっとだけ冷たい。アメリカは一日の中でも昼と夜とで寒暖差が激しい。そんなどうでもいい事でさえ名残惜しいような気がして、全身で布団を抱きしめた。 空港までの長い車中で半年通った大学のキャンパスがちらりと映り込んだ。当たり前過ぎる日常でしかなかったその風景。明日からはもうその当たり前が私の日常にはないのだと改めてそう思う。 アメリカで初めて食べたのがナポリタンだったこと、平屋の馬鹿みたいに広いスーパーのこと、二十五セントでも何かができるということ、毎週木曜日の決まったルーティンのこと、私が靴紐を結ぶのが苦手なこと───改めて再認識した自分の気持ちのこと。 それら全てが思い出となって吸収される。それは明日から全て思い出となって、過去の出来事へと形を変えていく。その覚悟と準備は先週のうちに整えたはずだ。だからあとは日本に帰って、そしてアメリカに行く前と同じ生活に戻るだけ。 「本当にフライトまでいなくていいの?」 「多分もうすぐ来るはずだから。」 「なら“ミヤギ”にもよろしく伝えてね。」 「うん、わかった。」 空港まで見送りに来てくれたホストファミリーに別れを告げて、フライトまでベンチに腰掛けて暇を潰す。もちろん“ミヤギ”は来ない。嘘をついた。つく必要があるのか自分自身でも少し疑わしく思いながら、けれどついてしまった。 笑っている自分でいたかったから……、だから笑っていられる内に全てが終わればいいとそう思った。 アメリカで習得したのは語学力だけじゃない。よく笑うようになった。宮城にもそう言われたからきっと間違いないんだろうと思う。 でもだからと言っていつまでも笑ってられる訳じゃない。よく笑うようになった分だけ、その他の感情も豊かになった。自分の心の中でひっそりと秘めていた今までと違って、全部そのまま感情に出てしまいそうで怖かった。 だから一人でこの国を出て行こう。 お世話になったホストファミリーにも、宮城にも見送られる事なく、一人で。嘘をついてまで一人でいたかったのは、本当に宮城がかつて言った理由と近しいのかもしれない。 湿っぽいのは苦手だ。だから宮城が誰にも何も言わずにアメリカへと旅立った理由を聞いて案外納得してしまった。そして、それは私自身も同じだと思えたから。 一人でやって来たこの国から、一人で出ていく。ただそれだけ。 「!」 半年間の留学にしてはかなりコンパクトなスーツケースを手に持って立ち上がった時、切羽詰まったようなそんな耳馴染みのある声が聞こえた。自分の名前を呼ばれたような気がするけどきっと気のせいだ。 「おい無視すんなって!」 振り返った先には、私の腕を力強く引き留める本来そこにいる筈もない宮城の姿があった。 「……試合は?」 「そんなの聞くなよ馬鹿。」 「馬鹿って……」 どうしてもこの日に帰国しないといけない訳ではなかった。滞在先の家族にはせっかくなら家族全員で揃って見送りたいと次の土日まで居ればいいと言ってくれたのをわざわざ断った形だ。 帰国する日を今日にしたのは、明確な理由があった。 「馬鹿はそっちじゃん。」 「じゃあいいよ馬鹿で。」 「……ほんと馬鹿。」 「なら俺とお前馬鹿でお揃いだな?」 少し前に宮城が言っていた言葉を思い出して、それを理由にしようと思った。物理的に彼が来られない、そんな日を選んで。 今日は宮城がプレップスクールを出て初めてレギュラー出場することが決まっていた試合の日だった。 日本でもあまり体格に恵まれている訳ではない宮城にとって、このアメリカでレギュラーを掴み取るのは極めて難易度の高いことで、そしてそれは彼が直近の目標としていた事だった。目一杯平気なふりをしてクールに「試合見にきてよ」と言っていた彼の照れくさそうで隠しきれない喜びに満ちた顔は私まで幸せにしてくれた。 だからその日を選んだ。 例えどこかから私のフライト情報を得たところで、大事な試合と私の帰国など天秤にかけるほどのものでもない。比重の違いすぎるものを天秤にかけたところで意味はないからだ。それなのに、どうして彼はここにいるのか。 「俺も同じことしたから別に否定するつもりはないし……何で言わなかったとかもう言わないから見送らせてよ?」 見送るつもりが果たしてあるのか疑わしい力強い右手に、確固たる覚悟と決意が少し揺るぐ。だから誰にも見送られる事なくひっそりとこの国を離れたかったのに。いい半年だったと、その一言で簡単に終わらせることが出来ないから。 「ほんっと……初めてのレギュラーだったのに?」 「ま、俺の実力なら次も選ばれるだろ〜し?」 「………随分強気じゃん。」 「そう、強気なの。だからあんま心配すんな。」 大したことを話していない内に、搭乗口には人がずらりと並んでいる。十分前のアナウンスが流れて、いよいよ日本に帰る時が着実に近づいている。こういう時、なんて声をかけるのが正解なんだろう。気の利いた言葉が出てこない自分が酷く憎らしい。 せめて彼の記憶に残る私が笑顔であるように、ちゃんと笑っておこう。うまく笑えているか判断する手鏡は持ち合わせていないけど、きっと大丈夫だ。 「じゃあ、私からの念も込めて。」 「ん、なに?」 「次も宮城が選ばれますよ〜に!」 私の腕を強く掴んでいる彼の右手を引き剥がして、そして両手を使って手のひらを捲る。大きくごつごつとしたその手のひらにキラリと鈍く光るコインを置いて、そして再び握らせるようにして手のひらを閉じる。 たった二十五セントで一体何ができるのか。そう思っていた私に何かができる事を証明してくれたのは宮城だった。出来るか否かではなく、それは本人次第という事を宮城は教えてくれたんじゃないかとあの時そう思った。 「頑張って。」 「……俺が見送られてるみたいじゃん。」 「一年半越しに出来なかった見送りしてるのかも。」 「なんか腹立つ……」 「腹なんて立てないでよ、最後なんだから。」 振り向いて確認すると、搭乗口からは既に人が消えていて閑散とし始めている。その隙に一度自分の感情に整理をつけて、そして口角を上げてもう一度振り返った。彼の記憶に残る、最後の私に相応しい顔をして。 「元気でね、宮城。」 もう一度掴まれていた私の腕から、宮城の左手がするりと落ちていった。 俺の左手をするりと抜けていった彼女の背中がどんどん遠くなって、搭乗券を見せるとでっかい飛行機の中に入り込んで消えていった。 最後に見た彼女の顔を思い出す。 ついさっき見てばっかなのに、何だか遠い記憶のような気がして変な感じがした。でも、暫くは消えてくれそうにないそんな顔だ。多分自分では上手く笑えたと思ってるんだろうな。全然そんな事ないのに。 ぎこちなさと今にも崩れそうな、そんな顔だった。喜怒哀楽が全部いっぺんに集約された今までに見たことのない初めての表情。 アメリカに来て、彼女と再会して───俺はもっと彼女のことを知っていると思っていた。でも全然そんなことはなくて、知ろうとすれば逆にもっとよく分からなくなった。 今もそうだ。多分知ろうとし始めたあの頃よりも、今の方が分からないから。 大事な試合をすっぽかしてまで此処へ来た筈なのに、しっくり来る言葉を伝える事は出来なかった。 最後に何か伝えたくて、「さよなら」と言うのが嫌で、それに代わる言葉を探してた。でも結局その言葉は見つからなかったらしい。 手のひらにある二十五セントを見るのが怖くて、拳は閉じたままだ。 今この瞬間から、彼女の居ないアメリカを生きて行くことを認めたくなかったのかもしれない。 BGM:奏(かなで) / スキマスイッチ Case6. いつか、をうたって |