Case6. いつか、をうたって 日常というものは記憶や体験を簡単に風化させる。 日本に帰ってきて、アメリカに滞在していた期間と同じ六ヶ月が過ぎようとしている。もう間もなく私は大学三年生になる。就職活動の準備やらなんやらと忙しくなるのが目に見えていた。目に見える簡単に想像のつく忙しさは、寧ろ私にとっては幾分か都合がいい。 宮城の居ない日常は簡単にやってきて、そして新しい日常として存在している。 毎日ピザやらハンバーガーやらジャンクな食事をしていたのが嘘のように、今は冷蔵庫に入っている質素なおかずに白米の日々だ。あの半年が夢の出来事だったかのように、まるで異世界のことのように思えた。 私は今神奈川県の実家に戻ってきている。 中途半端な時期に戻ってきた事もあり、中々条件に合う部屋が見つからず仮住まいのつもりで身を寄せていたらずるずると半年が経ってしまった。 とても実りのあるアメリカでの半年と比較して、帰国後からの半年が果たして同じ期間なのか……俄に信じがたい。 今は就職活動の準備をしながら再び一人暮らしをする為の部屋探しをしている。半年の留学を終えて、果たして自分がやりたかった事は実現できたのだろうか。そして、それは一体何だったのか。目的が分かっていない時点でそれは判断ができないのだから、何だかとても矛盾している気がして気分が落ちた。 いつでも家を出る事ができるようにスーツケースを押入れから引っ張り出して、久しぶりに開けてみると一気に記憶が蘇るような懐かしい香りがした。 「うわあ……」 それは声に出してしまう程にアメリカを感じる香りで、思わずスーツケースの中に取り残されたままになっていたバスタオルを取り上げた。とっても甘くて香りの強い柔軟剤はアメリカそのもののような気がして。 本当は帰国してからまともにスーツケースを開いていない。 どうしても必要なものだけを取り出して、それ以外はよく確認もせずにガシャンと鍵をした。自分にとっての掛け替えのないあの半年の記憶がアメリカから持ってきた空気と一緒に消えて無くなるような気がして何となく触ることが出来なかった。 「……なにしてんの。」 「いや、なんでもない……そっちこそなに?」 「アンタ訪ねて男の子きてるけど。」 「男の子って誰?」 「だからこっちが聞いてる。」 歳の離れた姉が実家に帰ってきているようで、スーツケースから目一杯空気を吸い込んでいる摩訶不思議な光景を見られてしまった……というかノックくらいして欲しい。家族でも礼儀は必要だし、姉という権力で当たり前のような顔をするのもやめて欲しい。 「気の良さそうな子だけどアンタの彼氏?」 「…ではないと思う。彼氏いないから。」 「あ〜、だよね?」 姉は昔からこういう人だ。人の感情を逆撫でするのがとても得意だ。私があまり喜怒哀楽を表に出さないようになったのは姉の影響も少なからずあるのかもしれない。幼い頃の私は平常心を保った方が身の為だと気づいたのだろう……少なからずじゃなく、大いにそれしかない。 「なんか急用らしいから行ってあげなよ。」 「……分かってる。」 家を訪ねてくる気の良さそうな男の子なんて私の知り合いにいただろうか。即座に思い浮かぶ人は特別いなくて、そもそも大学にもあまり異性の友人がいない私にとって心当たりがある筈もない。なんだか少し話が怪しくなってきた。 こんな土曜の昼下がり、堂々と人の実家を訪ねてくるなんてどういう男だろうか。 「さん久しぶり、突然ごめん。」 安田くんだった。気の良さそうな子とは彼の事だったのか。納得だ。良さそう、なのではなく実際に気の良い人なので姉の情報に誤りはない。しかし何故彼が今ここにいるのか、私の実家にまでわざわざ足を運ぶなんて本当に余程の急用だろうか。 「卒業ぶりだよね、どうかした?」 「リョータから手紙が届いたんだけどね。」 宮城の近況が語られるのだろうか。聞きたいようで、聞きたくない。私の時間はあの時の宮城のまま止まってしまっているから。そこから綺麗に私だけをくり抜いたように、きっと彼の日常は変わらない。変わったのは私の日常だけなのだろうとそう思うから。 だから聞きたくはなかった。 「次の金曜日、十七時に帰ってくるって。」 どうして?とはすぐに聞けなかった。理由を聞くのが怖かったからだ。 「なんで私に?」 「伝えて欲しいって書いてたから。」 少し間をおいて深呼吸をしてから聞くと、安田くんの口から出た言葉に再び同じ言葉が浮かんだ。なんで、どうして。一体彼はなにをしに日本へ帰ってきて、そしてどうしてそれを私に伝えようとしたのか。 「住所わかんなくて僕の所に出したみたい。」 「……そっか。」 「もしよければ現物渡すけど。」 「ううん平気、ありがと。」 この恋は終わりにしよう。その言葉を、一体何度自分の中で唱えただろう。強くそう決意しながら、何度自分を裏切ってきただろう。結局私は自分を裏切ってばかりだ。アメリカの空港から飛行機が離陸した瞬間、今度こそ本当に自分と約束した筈だった。 「あとこれ。」 「…ん?」 「コイン…お金かな?もしかしたら間違ったのかもだけど。一応これもさんに渡しておくね。」 一体宮城はなにをしようとしているのだろうか。 あの時、最後の別れを交わした空港での出来事を思い返す。ちゃんと笑顔で別れを告げて搭乗した筈なのに、機内へと続く長い廊下を歩いている途中で急に感情が溢れ出した。あの時の私はどんな顔をしていたのだろうか、宮城の記憶の中には笑顔の私が残っているのだろうか───彼はどんな顔で私を見ていたんだろうか。 「じゃあ僕はこれで。」 「出向いてもらってるしお茶くらい出すよ?」 「いや、これ伝えにきただけだから大丈夫。」 「……バッサリ切るね?」 「うんまあ、話題に困るのも気まずいし。」 「おっしゃる通りで返す言葉がない……」 安田くんは私に手のひらを出すように言うと、その上にキラリと鈍く光るコインを握らせた。この絶妙な重さと、ちょっと燻んだ銀色、とても見覚えのある紋様。半年ぶりにみる二十五セントだった。 日本に帰ってきてから全て換金してしまった私にアメリカのお金の手持ちはもうなくて、思い出さないために一セント残らず日本円に変えたのを思い出した。思い出が消えないようにスーツケースの中身は閉じ込めるのに、思い出さないために正反対のことをしている私にはいつだって矛盾が付き回る。 「それじゃあ。」 「わざわざありがと。本当にお茶はいらない?」 「うん、平気だし……多分怒られちゃうから。」 肩から下げられていた鞄のチャックを閉めて、安田くんはうちの玄関からお邪魔しましたと行儀よく出て行く。途中まで見送ろうと一緒に歩いていると、急に何かを思い出したのかくるりとこちらを向いて、ちょっとだけ苦笑じみた笑みを浮かべた。 「やっぱ似てるよ。」 「…ん?」 「リョータとさん。」 「え、どこが?」 私と宮城の似ているところを考えてみる。今まで一度もそう思った事も感じた事もなかったので、まるで思いつかない。見た目の雰囲気?性格?考え方?なに一つとってもやっぱり一致する物が見つからなくて首を捻って考えていると、もう一度安田くんが笑った。 「そういうところ。口下手なのに面倒見よくってさ、人のこと放っておけないとこ。」 気づかなかった? 私の回答を待つ事なく、安田くんは手を振って背を向けた。 成田空港に来るのはこの一年で三回目だ。 ちょうど今から一年前、ここから私の留学が始まった。その先に何があるのかまだ何も知らないあの時の自分がなんだかとても懐かしい。あの頃の私は本当に何を望んでアメリカへと旅立っていったのだろうか。今も昔もそれはとても曖昧だ。 此処へ来るにあたって、自分との約束事を作った。 しれっと何事もなかったように彼を迎え入れること。宮城が日本へ来た理由を詮索しないこと。そして、恋を思い出さないこと。 私に此処へ来る義務はない。ただ伝えられただけなのだから嫌なら行かなければいいだけだ。けれどそれが出来ないのであれば、自分と約束をしないといけない。いつも自分を裏切ってばかりの私だから。 「宮城!」 少し向こうから海外帰りとは思えないような小さいカバンを肩から下げている宮城を見つけて、自分でも驚くほど元気な声で彼の名前を呼んだ。 「また上半身おっきくなった?」 「……半年ぶりの挨拶それかよ。」 「久しぶりだね。」 なるべくいつものように、いつも以上にいつものように……“いつも”を意識しすぎた代償がこれだ。意識をして話す時、どうしていつも私の口調は漫談調になってしまうのだろうか。自発的に意識している事をカミングアウトしているようなものだ。 「元気ないじゃん、飛行機酔いした?」 「してない。」 「そっか、じゃあお腹空いたでしょ?前アメリカで一緒に行ったハンバーガーショップ最近日本にも上陸してさ?」 自分でも驚くほど沢山言葉が出てくる。安田くんが言うように、私は間違っても口が達者な方でもお喋りでもないのに今日ばかりはぺらぺらと勝手に私の口がお喋りを始める。なんとも痛ましい気持ちになるのに、反比例するようにそれは止まらず加速する。 「ハラペーニョのピクルスはないんだけど、」 「───。」 とても冷静で、静かな宮城の声だった。 また私は彼の目をまともに見ることが出来ないでいる。合わせようと思うと逆にすいすいと泳いで行くようでピントが合わない。もう一度呼ばれて、ついに視界に入れた宮城はとても表現し難い顔を覗かせている。 「話がしたいんだけど、いい?」 あまりにも私との温度差があって、私はこの感じを知っている。 「ご飯食べながら聞くよ。」 「近くにホテルとってるから、そこでいい?」 そんな顔で、とても落ち着いた声色で言わないで欲しい。ただでさえノーが言えない日本人の中でも、私はノーが言えないのだから。どう考えたって言えるはずがない。今まで何度となく私の話を聞いてくれた宮城が相手だったから。 ただただ、何を話されるのかを気にしながら。自分にとっていい話が出てくるという思考はまるでなくて、結局私は宮城の言葉に怯えながら待つことしかできない。アメリカに行く前と、何も変わらず成長もしていない。 「……どうかした?」 声が裏返らないようにするのが精一杯だ。もう此処までくると平然を装うのにも無理があって、多分動揺を隠しきれてはいないだろうと思う。 「半年前の話と……あとは今の話もしたい。」 自分との約束は、今日も果たされない。それは私の意志と心が弱いからで、そしてどう足掻いたところで結局この恋を終わらせることができないからだ。 一生懸命自分をコントロールしようとしたところで、そんなのものは焼け石に水でしかない。それは制御できない物であって、コントロールできないからこそ恋とそう呼ぶのかもしれない。 彼の目を見て思ったのは、そんな事だった。 Case7. 君に還る |