Case7. 君に還る 前触れもなく竦んでしまって、足が前に出ない。 つい少し前まで饒舌すぎるほどにうるさくお喋りしていた口は急に閉ざされて、そしてなかなか一歩を踏み出せない。何を言われるのか。人間は想像できないものに対しては恐怖を感じる生き物だ。とにかくどうしようもなく怖かった。 一変した私にも動じる事なく、宮城はとても冷静な装いだ。 立ち竦む私の腕を掴んで、嫌がる犬の散歩をするように私を強引に前へと進ませる。空港で力無く離れていったあの時とは違って、撓む事なく終始強い力で握られている。強い意志が宿っているようで、余計に怖かった。 「チェックインお願いします。」 小脇にでも抱えるように当たり前に私の腕を引いて歩く宮城に連れられてきたのは空港近くのビジネスホテルだ。 私の知る限り、宮城は渡米してから一度も日本に帰っていないはずだ。つまりこれが彼にとって初めての帰国になる訳で。当然のように実家に顔の一つでも出しに行くかと思っていた私の予想は大外れもいいところだ。予め予約していたであろうそのホテルでのチェックインはとてもスムーズに完了してしまった。 「そんな怯えんなって、なんもしないから。」 「……別に怯えてはない。」 「ちゃんと離れるから話聞いてよ。」 シングルのベッドの上に座るように促された私の少し先で、宮城は用意されていた一人がけのソファーに腰掛けて私との距離感を保つ。なんだか妙な表情をしているものの、けれどどこか落ち着いて腹が据わっているようにも見える、そんな彼の姿は初めて見た。 「少しは落ち着いた?」 そう言って私の方を見ているくせに、返事を待たずに少し間を置いた後に彼の口が小さく言葉を模る形をしていて、また慌てふためきそうになる。 「ちょ、ちょっと待って……」 「フライトで十三時間はもう待ってるんだけど。」 冷静すぎる返しにやっぱり言葉は続かなくて、黙るしか選択肢がなくなってしまった私にもう逃げ道はない。きっと今までの宮城なら私の反応を待ってくれていた筈なのに、その意志の強い琥珀色の球体が私を一点に見つめながら次の言葉を紡ごうとしている。 「木曜日のこと、覚えてる?」 「木曜日?」 「アメリカいた時、毎週会ってたでしょ。」 それは私がアメリカにいた時に毎週欠かさず彼と会っていた日で、私のアメリカ生活を語る上ではとても重要でルーティンと言う名の日常だった。 渡米してばかりで右も左も分からない一番不安定な時を救ってくれた大切な時間。今も尚色褪せることのない、私の輝かしい思い出。そして過去になってしまった“記憶”だ。スーツケースから取り出せていない荷物のように、まだ鮮明に思い出せる色鮮やかな記憶。 木曜日だけは練習場が違って、そして私の通う大学の近くだからとそんな理由から始まった私たちの毎週の日常を思い出した。 「嘘ついてたことがあるから白状する。」 「…なに、嘘って。」 「木曜日だけ練習場所が違うって、あれ嘘だから。」 「…………は?」 突然語り始めた彼のその言葉を聞きたくなくて耳を塞ぎそうになるのを必死に堪えていれば、よく分からない会話が繰り広げられている。想像していた内容と三百六十度内容が違うじゃないか……それだと一周回って同じなのか。 構えすぎていた分脈絡もないその告白に、逆に思考が追いつかない。 十三時間もの長いフライトを経て二年ぶりに帰ってきた日本で一番最初にする会話ではないはずだ。拍子抜けてがっくりと力が抜けて何だか緊張感がほぐれていく。本当に突然何の話をしているんだろうか。 「木曜日は毎週オフだった。」 バツが悪そうな宮城のその顔をとても久しぶりに見た気がする。初めて知った事実だ。私がアメリカに行った初日に彼と再会している事を考えても、色々と辻褄が合わない。いつそんな理由を作り上げたのだろうか……なぜそんな不必要な嘘と、私にしかメリットのない理由を作り上げたのだろうか。 「がつけてたノート。」 「……ノート?」 「だんだん量が減ってるのも本当は嫌だった。」 ノートと言われて、その存在をようやく思い出す。私が分からないところをまとめていたノートのことだろうか。最初のうちは一週間で数ページが消費されていたあのノートは、時間を追うごとに出番をなくして、そして私の鞄から出てくることは無くなった。 「にとって俺の存在意義がなくなっていくみたいな気がしたから………」 一体彼はなにを言っているのだろうか。 まるで意味が分からない。一方的に語られるその口調に押されてなにも言えないでいると、どんどんと新しい事実が私の耳元に入ってくる訳で。耳を塞ぎたくなるような、そんな言葉でもないのに聞いているこちらがどうしようもなく居心地が悪い気がするのは果たして私の思い過ごしか幻聴なんだろうか。 「ちょ、ちょっと!待って!」 「……もう待たない。」 必死の思いで声として形成したその言葉は、彼の一言でかき消されて効力を失う。待ってと言って待ってもらえないそんな世界で、私は一体なにに縋ればいいのだろうか。ポケットの中で時々存在感を示しながら太ももにぶつかるコインに手を伸ばして、ぎゅっと掴んだ。 「最初は来てばっかで大変だろうなとか、そんな事思ってたし懐かしい気持ちももしかしたらあったかもしれない。」 どうしていつも宮城の言葉は聞きたいようで、何故だか聞きたくない気がするんだろうか。思い返して、そして、もう数年聞いていない彼女の名前が出るんじゃないかと構えていた自分に気づく。逆にどうして、卒業して以来宮城からその名を聞くことがなかったのか今にして思えばとても不思議でしかないのに。 「途中からは……ほんとは違和感に気づいてた。」 「……………」 「俺が必要なんじゃなくて、俺に必要だって。」 そんな言葉、どうやって解釈するのが正解なんだろうか。あまりにも自分に対して都合の良すぎるニュアンスに捉えられて混乱が生じる。 宮城を好きになって、恋をして、片思いをして、彼の視線の先を私も一緒になって見てきたこの数年間を、この一瞬の出来事と言葉で昇華できなくて。そう思うには、あまりに唐突で、そして幸せなことだから。 結局私はいつも立ち止まって、尻込みばかりしている。 「だから日本に帰ってきた。」 「……二年も帰ってきてなかったくせに?」 「そう、二年も帰ってきてなかったのに。」 その言葉にベッドで一歩後ろに下がる。彼が立ち上がって、もう二歩後ろに下がる。 自分の都合のいいように物事を捉えて馬鹿を見るのはいつだって私だから。だから、そんな簡単にこの数年間を今に繋ぐことなんて出来ない。あとで地獄を見るのはもう御免だ。けれど、地獄を見ながらもその地獄から結局何年経っても私は這い上がることが出来ないでいる。どうしたら自分の心を救えるのか、私に分からなければ誰に分かると言うのだろうか。 「……流石に分かるでしょ、意味。」 「アメリカ帰りで日本語分からなくなったのかも。」 「……じゃあ英語で言ってやろうか?」 もう充分すぎるその言葉がそこにあるのに、それでもそれに縋ることの出来ない私は可哀想な人間なのかもしれない。とても不幸なのかもしれない。でも、そんな私をよく知っているのもきっと目の前の男なのかもしれないと都合よく思ってしまったから。 「だって宮城は───、」 「だからこの半年ちゃんと考えた。」 その名前を出さないのは彼なりの優しさなんだろうか。思わず本当の自分が手を伸ばして縋りそうになるのを精一杯抑え込んで、息を呑む。 誰がこんな展開になると想像したんだろうか。少なくとも私が想像していた未来ではない現実世界がそこにはあって。安田くんは私を訪ねてきた時からこんなありえない未来を予測していたのだろうか。 宮城の言葉のひとつひとつを咀嚼して、そして砕いていく。 こんな私が夢でも見なかったような展開があってもいいのだろうかと慄いてしまうくらいにそれはあまりにも私にとって甘美でしかなくて、勿体無くて。けれどそれを言葉にして、十三時間もの時と、そして夜を越えて運んできたのは目の前にいる宮城張本人だ。 「今ここにいるのが俺の意志で、それが答えだから………分からないなら分かるまで言うから……どうしたら信じてくれるのか教えて。」 笑顔が得意になった筈だった。ちゃんと終わらせて前を向くつもりだった。 でもそれは結局いつの時代も達成されなくて、そして簡単に私の表情から笑みを奪っていく。泣きそうな自分を必死に堪えていたら、優しくて大きなその右手が私の頬に伝うそれを拭っている。 「………泣くなって。」 「生理現象だから。」 「俺まで泣きたくなるじゃん。」 ここまで言っておいて、それなのに戸惑いがちな宮城に自ら手を伸ばしそうになって、観念したようにとても優しい力が加わった。さっき空港で捕まれた腕よりもそれは弱々しくて、そして頼りない。けれど、どうしようもなく愛おしい暖かさだった。 「……なにもしないんじゃなかったの?」 「生理現象。」 「随分都合のいい生理現象だね?」 「自分に都合よくしないと一生始まらないだろ。」 先日スーツケースから隠しきれないように漂っていたとても甘ったるい香りがして、ここが日本なのかアメリカなのかを分からなくさせた。こういう感情を夢見心地とでも言うのだろうか。 経験したことのない抱えきれない幸福を抱きしめて、それが夢ではないことを祈るくらいしか私にはなす術がない。どうかこれが壮大な夢ではありませんようにと、そんな夢のようなことを考えながら。 いつだか言った言葉を思い出して、そしてなぞってみる。 「友達同士はこんな事しないよ?」 「…………」 「ここ日本だし。」 夢ならば早く覚めればいいのに。上げて下げられるのは御免だ。だから私はそんなどうしようもない言葉で彼を試してしまう。賢くない私には、これが現実だと立証するものがどうしても必要だから。 けれど、その返事を待つことなく私の方から口を開いた。 いつだって待ってばかりの自分から抜け出そうと思ったからだ。これが現実であることを自分で証明して、過去の呪いのような呪縛から自分を解放するために。 「彩子にしか見せない宮城の特別な表情が好きだった。」 「……過去形かよ。」 「ずっと……今も、彩子が羨ましかった。」 彩子を追う彼の視線を、ずっと見てきた。彩子になりたいと思って、もちろんそんな事なんてできるはずがなくて行き場をなくしたその感情に何度も心を折ってきた。追い求めることで、より惨めさを感じてきたから。 私がどれだけ努力して足掻いたところで、それは彼女の真似にしかならないのが分かっていて立ち止まってきた。だからきっと宮城の視線が私に向くことなんてないと、そう思って生きてきた。 「じゃあさ、」 「…ん?」 「その表情に向けてもいい?」 自然と伸びてくる彼の右手が私の髪を探るようにして、そしてゆっくりと距離が近づいた。全くアメリカナイズされていない私たちのそれは、まるで小鳥が囀るような重なりで、何だか逆にくすぐったかった。 「もっとアメリカっぽい感じなのじゃなくて?」 この雰囲気に耐えかねた私からは、やっぱり可愛らしい言葉なんて出るはずもない。けれど、茶化したようになってしまうのは逆にいつもの私たちらしいと言えばそうなのかもしれない。 この先の続きを、私たちは愚か誰も知らないだろう。それはきっと先見の目を持つ安田くんでも分からないまだ描かれていない話だから。その続きは、私が勝手に描いていくことにする。呆れてしまうほどに、自分に都合がいいようにして。 「……したら俺帰れなくなるじゃん。」 確かにと頷いて、もう一度小鳥のようなキスをした。 Case8. ロマンスはこれから |