番外編/Case9-2
エッセンシャル


 拒絶するよりも先に、私の舌を縫って入ってくる生暖かい熱量に押し切られる。
 結局私が勝てるところは何一つない。元々男女の違いによる力の差があるのにアメリカで鍛えられた上半身を持つ彼に私が敵う筈もない。
 そもそも論にはなるが、最初からそんなところで無駄な勝負はしない。
 きっと恐ろしい運動量に日頃から慣れている彼の肺の袋はとても大きくて、私よりもとてもとても長く息を持たせる。彼とは違って日頃何の運動もせず必要最低限のスタミナしか持ち得ない私が陸に上がった魚のようにバタバタし始めた頃、チラりと一度目を開けてこちらを見てタイミングを見計らっている。
 降参の合図をしてもすぐ解放されることはなくて、本当にもう無理だと限界を迎えるほんのちょっと前に、息継ぎをする魚のように余裕気にスッと唇が離れていく。
「ちょ、ちょっとリョータ!」
「そういう時だけ名前呼ぶの都合良すぎない?」
「……普段から呼んでるでしょ?」
「何かお願いしたい時しか呼ばないくせに。」
 無意識でしかなかったけど、言われてみれば強く違うと否定することは出来ない気がした。出会ってからのとてもとても長い間、私にとって彼は“リョータ”ではなく“宮城”だったから。それは付き合ってからも暫くは継続されていた私たちの日常で、時が過ぎても中々日常的にそう呼び慣れないのかもしれない。
 心の中で彼のことを考えている時は自然とその名を呼べるのに、何だか急に照れ臭くなる気がするのだ。多分彼自身も私を名前で呼ぶのが少し照れ臭いのだろうから、きっとそれが分かってしまう分だけ余計と気に食わないのだろう。
「心配しね〜でも絶対勝つから。」
「勝てば何でもいいって訳じゃないでしょ?」
「じゃあしなくて負けたらどうすんの。」
「……そんな揚げ足取りみたいに。」
「そっちがイヤイヤするからでしょ。」
「あのさあ……子供じゃないんだから。」
「めちゃくちゃ大人だろ。」
 感情に素直な無邪気な子どものようであって、私のように包み隠すことなく自分の気持ちをそのまま私にぶつけてくる彼は本当に大人なのかもしれない。元々傾斜の高くついた彼の眉は、更なる急カーブを描いている。
「……だからこうしてる。」
 感情が昂ったり、ちょっと怒っている時はいつもカーブのきついへの字を描く。それは言葉よりも態度よりも何よりも分かりやすい彼を知る為の指標となる。
「アメリカいる時そんな事言わなかったじゃん?」
「……こんなに毎日じゃなかったし?」
「……なんで毎日したら駄目なんだよ。」
 結局話は堂々巡りで中々進展しない。
 試合の前日だから控えた方がいいのではないか?それは半分本当に思っていて、半分はちょっとした嘘が混ざっている。それは長年片思いをしてきたという環境と、気持ちが通じてからも長く遠距離恋愛をしていたからなのかもしれない。
 口が裂けても言いたくはなかったし、言うつもりだってなかった。酸素が充分に行き届いていない脳は正しい判断を生み出さず、私の口からそんな言葉が放たれることを止めようとしない。
「いくら一緒に住んでたってすぐ遠征とか長期合宿行っちゃうでしょ……」
 途中まで言って、冷静な判断が降りてきて思わず口を噤んでしまう。なんて事を言っているんだろうか……まだ誤魔化せる範疇だろうか?黙ってみたはいいもののぐるぐる考えを巡らせていたらとんでもなく恥ずかしくなって……多分顔を見て皆まで言わずともバレたに違いない。
「……へっ?」
 彼は面食らったように一度キョトンとした表情で私を不思議そうに見ていたけれど、暫くするとその言葉を咀嚼したのか、何故だか先ほどよりもよっぽど苛立っているようだ。何故だ?もしや私は彼を怒らせる天才なんだろうか。
「あの、ごめん……ほんとに今のは忘れて。」
「無理だろ……」
「いや……ほんと記憶から消し去ってください。」
 年に二度か三度ほどしか会えない彼と過ごしたとても少ない時間を思い返すと、いつもどうしようもなく苦しかった。一緒にいる時間が長いほど、その後の現実が身に染みるような気がして、手を伸ばしても届く距離に彼がいない事を改めて痛感させられたから。
「あのほんと戯言なんで……」
「もしそうなら怒るけどいいの?」
「……回答に困る。」
 もうとっくに私のこんな本音は伝わっているみたいで、何故だかため息を一度大袈裟に吐いて苛立っている彼にこれでもかと加減のない力加減で締め付けられる。怒ってるのか喜んでるのか分からない……いやさっきからずっと怒ってるな多分。
に選ばせてあげるよ。」
「……ん?」
 まさかこの状態でご慈悲でもあるんだろうか。せめて沸かしたての風呂くらいは入らせてほしい。家主である私の意志でもなければ許可をした覚えもないのに勝手に湯を張ったのは他の誰でもない彼なんだから。
「ここで俺に抱かれるのか、それともベッドでちゃんと抱かれるのか………どっちがいいの?」
 一小節おいて、言葉の意味を咀嚼する。咀嚼しても知っている味ではなくて、そのままとりあえずごくりと飲み込んでみる。けれどやっぱりそれは私の知らないもので……咀嚼もできなければ飲み込むこともできないけど、随分と論点がずれているのは分かった。
 というか、論点をすり替えてる。作詞家否、策士か!
「欲しいのその選択肢じゃないんだけど…!」
「十秒以内に答えないと無条件でここになるけどいいの?」
「…………」
「電気もついたまんまだけど平気?」
「べ、ベッド!」
 最早それしか残された選択肢はなくて、慌てたようにそう言うと、一度だけ静かに「分かった」そう言われた気がした。でもそれはあまりに一瞬のことできちんと脳が処理する前に、私の体は宙に浮いていた。ひょいとまるでスーパーで米でも担ぐくらいの手軽さでだ。
「わ、うあ?」
「……落ちたら危ないから暴れないで掴まって。」
 私の腕を取って自らの首元に絡ませたリョータに掴まりながら、改めてその首の太さや出っ張っている喉の膨らみを見て何とも言えない気持ちになる。
 左肘でノブを器用に下ろした彼は膝でコンと寝室のドアを開く。
 シングルベッドがすっぽりとハマっているような狭いその寝室で、彼の首筋に掴まっている私をリョータがそこに座らせて、寸分の時差もなくけれどとてもゆっくりと私の後頭部を抱えるようにしてベッドへと沈んでいく。あまりに丁寧で優しいその時間は何度経験しても心臓が破裂しそうになる。
「目……逸らさないで?」
 こういう時のリョータは何だかとても色っぽくて、そして優しい声で語りかけてくるので胸がいっぱいになる。ずっと彩子に向いている彼の視線を見続けた私にとって、今こうして降り注ぐ真っ直ぐすぎる眼差しは分不相応にも思えるくらいに眩しくて、いつも直視ができない。
「ねえって。」
「……ん、」
。」
 それはもう何十年と呼び続けられた自分の名前でしかないのに、リョータの口から出てくる自分の名前はとても特別な意味を持っていて、その度に苦しくなる。片思いをしていた時もそれはもうどうしようもなく抉られるような苦しさを覚えたのに、こうして幸せすぎても私は似たような苦しさを感じている……これを世間では矛盾とは呼ばないのだろうか。
「近い内に遠征も行くだろうし、長期の合宿だって多分あると思うけどさ、」
「……だから忘れてって言ったでしょ?」
「その度に俺の事思い出して恋しくなってよ。」
 自分が彼に何年も恋をして、諦めて、けれどもどうしようもなく本能的に恋焦がれて、何を求めていたのか。それはきっと一方通行でしかなかった矢印と視線が重なり合うことで、私はずっとこんな瞬間を夢見て生きてきた。
 あまりに幸せすぎて、忘れてしまっていた。
 それが少しだけ日常的になろうとしていて、忘れてしまっていた。どうしようもなく心を痛めて、何度も諦めようとして、そして諦めきれなかった彼とこうして一緒にいることができるそんな奇跡の話を、どうして私は忘れてしまったんだろう。
「……ちゃんとんとこに帰ってくるから。」
 さっきまでの雰囲気が嘘のように急に感情が持っていかれて、視界が歪んでいく。そんな筈じゃなかったのに、こうして彼は私に沢山の幸せを与える。両手に抱えきれないほどの、とてもとても大きくて、有り余る贅沢を。
「泣くなって。」
「……泣いてね〜し。」
「俺の真似かよ?」
「うん、バレた?」
 リョータの大きな手が好きだ。バスケと真摯に向き合っているのが分かる、皮膚の硬くなった親指が好きだ。全部が全部、好きで溢れていて、やっぱり感情が溢れてしまう。私を包み込んでくれる優しさの詰まったその指で、私の頬に伝ったものを拭って、そしてキザ?と普段なら笑いたくなるような甘さで唇をそっと押し当てた。
「ねえ、リョータ。」
「ん?なあに。」
 いつもこうして、肌を触れ合わせる時だけは甘ったるく柔らかい彼の愛情表現。それに甘えるようにして、両手を伸ばして頬を捕える。もう私の方向しか向いていないとよく知っているのに、強欲な自分の感情を見せつけるようにリョータの視線を独占して。
 するりとそのまま太く男らしい彼の首に両腕を擦り寄せて、そして少しだけ腹筋を使って彼の唇にかぶり付くようにして私から求めていく。
「……私の彼氏になってくれてありがと。」
 こんな状況でもその二文字は照れ臭くて、よっぽど短く簡単に言えるはずなのにそれが出来ない。私は相変わらず意気地なしで、そして彼からの有り余る優しさに甘えきっている。
 返事を聞くのがやっぱり恥ずかしくてもう一度齧り付くようにして唇目掛けて飛びついた。
 呼吸が圧迫されるまで、そう時間は必要なかった。



ⅲ.Next