番外編/Case9-3
エッセンシャル


 明日が彼の大切な初戦である事なんて、最早頭の中から消え去っていたのかもしれない。そんな事を考える暇も、思い出させる隙も、言わせる余裕も彼は私に与えようとしないからだ。
 ゆっくりと私の頬から降っていく筋張ったリョータの腕はシャツの隙間を縫うようにしてするりと入ってくる。つうっと人差し指を立てるようにしてボディーラインをなぞると、上に動かして、今度は背中の方へと回って器用に金具を外していく。
 煌々として私たちを映し出す光を遮るようにリモコンに手を伸ばして黒闇を作り上げると、そっと下着ごと上着を持っていかれる。
 まだ、ふにゃりと彼の人差し指を飲み込むように柔らかいそれの感触を確かめると、リョータの舌がそっとそれを舐めとっていく。まるでソフトクリームでも食べるかのように、外側をなぞりながら、私の頃合いを見てその頂を吸い上げた。
「……んっ、」
「うん?」
 あまりに焦ったい声が出て、自分自身に酷い羞恥心を覚える。
 真っ暗闇というにはまだ外に都会的な街頭の明るさが残っていて、それがカーテンの隙間からリョータの切れ長な瞼を映し出していた。うっすらと浮かび上がる彼の顔はとても色っぽくて、そして私を捉えているのが分かった。
 つまり、私にも見えているように彼にも見えている訳で……暫くすると余計と暗闇へと順応したそれは明確に私の視界へと映し出されていく。
 たまらなくなって、少し手を伸ばして彼のシャツに親指と人差し指をかけた。
「……リョータも脱いで、」
「脱いだ方がいいの?」
 シャツを摘んだ指はそのままに、こくんと一度小さく頷くと「…ん、」優しくそう頷いて両手をクロスさせながらシャツをベッドの上に脱ぎ捨てた。
 暗闇の中でもうっすらと見えるその鋼のように筋肉質な彼の腹筋から胸板にかけての作りに魅せられて、改めていつもこの体に抱かれているのかとそう認識させられる。
 もう一度ゆっくりと手を伸ばして、ぺたりとその強度を確かめるように触れて、そして人差し指を立てて、つう……とそれをなぞってみた。
「これ好きなの?」
「………」
 ぼこぼこと凹凸している表面を触りながら、そんな事を言われて咄嗟に言葉が返せずにいる。認めるのも、否定するのもどちらも正解ではないような気がして、そしてそのどちらであっても自分を恥ずかしくさせる事だけは確定しているから。
「ふうん、好きなんだ。」
「……なんも言ってない。」
「いいよ全然、」
 何だか会話が噛み合ってないような気がしたのは気のせいだろうか。ぶらんと無造作に転がっていた私の左手に、指の隙間を埋めるように絡まってきたリョータの手が持ち上げて、そして右手と同じように彼の胸板へとそっと添えられている。
 どくどく、どきどき、とても血が早く流れる音が聞こえてくるようなそんな振動だ。
「好きなだけ触っても。俺のもんはお前のもんだし?」
 最早彼も私の返事を待ってはいないのか、その代わりに私の心の臓を貫くように大きな手のひらでその振動を確かめるように再び形を作って触れていく。結局、今彼の手のひらに伝わっている振動こそが、何よりの証拠で答えになっていた。
 時間をかけて執拗に彼の口に含まれている何とも言えないその温度がとても焦ったくなった頃、まるでそのタイミングを窺っているようにずるずると重心が下がっていく。
 固くセットされている筈の彼の髪の毛は本当のところ猫のように柔らかくて、そして柔らかいウェーブを描いている。ふわりとそれに触れようとすれば、私の手元を離れるように場所を変えて唇を落としていく。
 確かめるように布の上からつぷっと少しだけ中指を埋め込んで、そしてなぞる様にして下から上へと下着の上を滑っていく。今度は親指の腹をグリッと食い込ませると、自分自身でさえじわりと何かが広がっていく感覚を覚えてより一層羞恥心を生む。
「……それやめて、よ。」
「なんで?」
「……わざとでしょ。」
 水気を含んでいく様が私を恥ずかしめると知っていてあえてやっているに違いない。だから思わずたまらなくなって、自分から早々に求めるような言葉を放ってしまう。それさえも、私を恥ずかしめると知りながら。
「ふはっ……ごめんって、怒んないでよ?」
「ばか。」
 それでもこういう時ばかりは意地の悪いリョータは、ショーツの中に左手を忍ばせながらなぞり上げて、そしてやっぱりつぷっと緩く浅い所をゆるゆると触ってばかりだ。つるんと滑る彼のごつごつした男らしい指に、これ以上なく恥ずかしくなってもその感情は物理と比例しないのがいつもの事ながらどうしようもない気持ちにさせる。
 ようやく許しを与えてくれたのか、彼の右手が隙間から抜けていってそのままするすると片足を滑らしていくように降って行って、私の左足にぷらんと布切れがぶら下がった。
 何度かゆるゆると滑りを確認したその中指が入り込んで、私自身もその指に熱を感じてどんどんと力が抜けていく。どんどんと馬鹿になっていきそうな気がして、縋るようにしてもう片方の彼の手を取ってみればすぐに隙間を埋めるように絡め取られた。
「ちょ、ちょっと!」
「今度はなに。」
「あの……お風呂入ってないからやめてよ……」
「なんで?」
「なんでって……」
 どんどんと下がっていく彼の顔に一抹の不安を覚えて、呼び止めれば逆に聞き返されて狼狽えた……だとしたら風呂を沸かしたのは、一体あれはなんだったのかという話になる。
 何もかも彼に主導権を握られていて、そして握らせているけれど流石に私の主張も聞いてもらわないと困ると、意を決していれば何故か口を開いたのはリョータの方だ。
「じゃあずっと見てていいって事だよね?」
 急に体勢を起こしたかと思えば、ひょいと私の片足を掴んで自らの肩の上に乗せたリョータはそのまま私を眺めるように見下ろしている。つぷつぷと中指を中へと滑らせながら、私の反応をただじいっと窺っているようだ。
「隠したら駄目だから……」
 視覚的に入ってくる情報があまりにも情報過多で、たまらなくなって右腕を顔に置いていれば簡単にそれを剥がされる。結局パターンの違う羞恥がそこにはあるだけで、そこから私を逃してはくれない。
 しっかりと私の表情筋の動きを逐一把握している彼の動きはとても正確で、時々位置を変えながら質量を増やしていく。親指をぐりぐりっと押し付けるようにしながらその旋律を奏でる。
「………あっ、……ん、」
「……いいよ、イきたいんでしょ?」
 そこは意地悪をする事なく、簡単に許しを出すリョータに頭が真っ白になりそうな程空っぽな状態になって、彼のその一振りの動きで簡単に表現し難い感覚を終えていく。
 寸でのところで響いたその言葉に、時間をかけてぎゅうっと狭くなって彼の指の感覚を強く感じられるようになっているのがリョータにも同じく筒抜けなのだろうと嫌でも分かるから、体の力は抜けている筈なのに血をめぐる心臓の音が耳につくように煩い。
「……は、早く抜いてってば、」
「なんで?」
 こういう時のリョータはすぐになんで?とそればかり言ってくる。私が困るのを知っていてやっているので、本当にタチが悪い。
 波打って狭まり、まるで心臓のように生きているその感覚をあえて指で感じているんだから。そんな恥ずかしいことはない。
「ばか!」
「ふはっ……ごめんって?」
 私の頭上にあるベッドの収納扉をスッと手前に引いて、長方形の箱を取り出した彼の動きを少しだけぼうっと眺めていた。
 銀色にテラっと光っているそれをピリッと切り外して、そして口に咥えてからズボンにかかったリョータの手を、慌てたように押さえつけてしまった。つい、勢い余って「うぉ?」っと体勢を崩した彼は再び少し腹立たしい顔を覗かせている。
「流石にここまで来てお預けはないでしょ?」
「ちがくて、」
「じゃあなんだよ。」
「……それなくてもいいから、」
「だからなんでだよ?」
 まさか私の口からそれをつけないでいいという言葉が出て来るとは想像していないのか、まるで私の言葉の意味を解釈できていないリョータの顔色が曇っている……というか普通に怒ってる、多分。
「ピル!ピル飲んでるから平気なの!だ、だから……ゴムはいらない、かもって……」
「……いや、かもって……ちょっと待って話読めない。」
 私もかなり取り乱しているけれど、リョータもまだ飲み込めていないようで頭の中で考えているのだろう、上の方を向いている彼の黒目が右に左に揺れながら言葉の意味を探している。
 今から半年前、まだアメリカと日本の遠距離恋愛をしていた時のことだ。
 周期的に半年ぶりにリョータと会うタイミングでばっちりと被ってしまいそうだった事もあって、一回限りと思い処方箋を受けてみた。そして、向こうに行って大層二人して酔っ払った時、ちょうど箱の中身を切らしてしまって一度だけお互い合意の上で、そのまま事に及んだ事があったのだ。
「……だから、駄目?」
 ふわふわと酔いを帯びた体でも、その時の感覚をしっかり覚えていて。とても薄いその隔たりがなくなるだけでこうも感覚が違うのかと、そう思ってしまったから。結局その時はお互い冷静になって最後まで及ぶことはなかったけれど、それからずっとピルは処方され続けている訳だ。
「駄目?ってお前さ……」
「やっぱ忘れて………てか絶対忘れて!」
「は?」
 なんだか熱に絆されていて、完全に冷静さに欠けた言葉を口走ってしまった気がして忘れた頃にどうしようもない恥ずかしさが全身を覆っていく。恥ずかしくて寧ろいっそのことこのまま目を閉じて永遠の眠りについてしまいたい。
 自分の提案が中々に攻め込んだものだと改めてじわじわと自覚させられて、一体どんな女と思われただろうか。怖くて顔を覆っている両手を除けることが出来ない。
「そんなん無理に決まってるだろ……」
 もう何度目になるか分からない大きな彼の指が私の指を絡め取っていて、何度か慣らすように馴染ませてからゆっくりとあの時と同じ感覚が襲っていく。
「…ん、……リョータ?」
「ほんと……もう、心臓一つじゃ足りねえじゃん……」
 そんな余裕のないただの感想のような彼の本音は私の本音でもあって、どうしようもなく愛おしくてやっぱり胸を締め付けてくる。




ⅳ.Next