番外編/Case9-1
エッセンシャル


 二人で住むには少し狭い部屋で、隙間を埋めるようにテレビを見ている。かつてこんなにもゆっくりと彼と時間を過ごした事はあっただろうか。少なくとも私の記憶の中にはないようで、この異常とも言える空間と時間にまだ対応してきれていない。
 打ち合わせがあるからと朝早く出かけて行ったリョータよりも三時間ばかり遅起きをして、スーパーに出向いた。両手いっぱいに野菜やら肉やら色々と買ってみたけど、一体私は何を作るつもりなんだろうか。自分でもさっぱりだ。
「……ところでだけど、」
「なんですか。」
「今日はパーティーでもやんの?」
「そんなことはない……かな?」
「じゃあこのメニューと量なんだよ。」
 私も聞きたい。買い物袋がぱんぱんになるほどに詰め込んで両手に食い込ませながら帰ってきたのに、何故かその食材を全て使い切ってテーブルには所狭しと皿とその上にのるバリエーション豊かすぎる食事が控えている。
 おそらく大人二人で三日、四日は消費するのに時間がかかるであろうそんな量だ。取り敢えず目についたものを全て籠に詰め込んで帰ってきたので、引っ越してきた時からまだ開封されていない段ボールを掘り起こして母親から譲り受けた料理の基礎レシピが載った本を開いて数時間、ようやく今に話が繋がってくる。
「これ大人二人分の晩ごはん?」
「……たぶん。」
「いや、たぶんだけど、絶対違うよな?」
 リョータが私の一人暮らし先に身を寄せて四日が経っていた。
 彼は私の高校時代のクラスメイトで、そして私の初恋の人だ。湘北で過ごした三年間はずっと一方通行に彼のことを見ていて、そしてその先にいる彼もまた私と同じように一方通行に別の方向を見ていた。
 卒業を待たずして渡米した彼とは、大学二年生になった春にアメリカへ語学留学をして奇跡的な……そしてどこかのドラマにでもありそうな再会を果たした。
 そこから本当に紆余曲折と紆余曲折と紆余曲折を経て、ようやく初恋を成就させることができた。
 アメリカ転勤のある会社に背伸びと一生分の努力をして入った社会人生活二年目、再び私はアメリカの地を踏み半年間、彼と同じマンションの別部屋で生活を共にした。つまり付き合ってから“会いたい”と思って物理的に合える距離にいたのはその半年間と、そしてまだ四日しか経っていない、という事だ。
 オフシーズンになるとまとまった休みを使って彼は日本に帰ってきていたけど、今回はそうじゃない。今回の帰省は無期限にアメリカへの帰国が決まっていないもので、そして言い換えればもう多分彼がアメリカに戻ることはないという事だ。
 人生何があるかなんて分からないから、断言はできないけれど。
「打ち合わせどうだった?」
「うん、予定通り明日スタメンで出られるっぽい。」
「へ〜初戦からすごいじゃん。」
「まあ、相手三井さんとこだし話題性もあるんじゃん?」
 エヌビーエーでしっかりと活躍して日本人プレイヤーとして歴史に名を刻んだ彼は、高校卒業以来日本に居を移すべく帰ってきたのだ。今日の打ち合わせは明日から所属する日本のプロチームとの最終の擦り合わせで、待ちに待った日本での公式デビューだ。
 つまり、この中華でも信じられない程の皿が敷き詰められている料理たちは、明日の試合でしっかり実力を出せるようにと精の付くものを選んで作ったつもりだ。初戦ほど大事なものも中々ないだろうから。
 日本人初のエヌビーエー選手とあって日本での知名度も高い彼の日本移籍と明日のスタメン出場はまだどこにも抜かれていない関係者しか知らない話なので、明日の会場ではより一層彼への視線が集まるだろう。負ける訳にはいかないし、負けさせる訳にもいかない。その結果が、これだ。
「なんかこれって……」
「ん?」
「随分精の付くメニューなんじゃない?」
「うん、だって初戦だし。」
「いや普通に負けねえし。」
「相手のチーム三井さんだし油断できないじゃん。」
「はあ?」
 やばい、ちょっとした逆鱗に触れたらしい。こうして異常とも言える量とメニューでもてなしたつもりだったけど、縁起でもないことを言うものではないらしい。そして彼は三井さんの事をとてもライバル視しているというか……意識しているから。そう言えば「は?ぜんっぜんちげ〜し」と怒られたけど、それが何よりの証拠だろう。
「負けると思ってるってこと?」
「違うじゃん。」
「……ほんと?」
「うん、応援の意味を込めてですね……」
「なら、すき。」
「へ?」
「大好きって言ってんの。」
 うなぎと、牡蠣と、ローストビーフと、レバニラ炒めと………エトセトラその他は割愛することにする。ちょっとやりすぎたとは思ったけれど、それに対する回答が結果的に大好きなのであれば問題ないだろう。
 けれど、問題なのは別のことだ。
 狭いながらもなんとか食卓スペースを設けているテーブルで、彼が私の正面に座る気配はない。私が腰掛ける椅子の近くまでやってきて、そしてすっかりとアメリカナイズされている仕草で簡単に私の唇を絡め取っていく。いやいや、食事はこれからなんですが。
「ちょ、ちょっと…!」
「ん?」
「ご飯の時間なんで!」
「向こうじゃ飯作ってくれたらこうするんだけど?」
「それは私の知らないアメリカの風習だね?」
 合計で一年アメリカにいた私でも知らないその風習は、勝手にリョータがでっち上げた風習だ。貪るように短くちゅっと唇を啄んで、私が怯んだところを見計らうようにもう一度触れて奥深くまで到達するように押し込める。
 そんなものが風習として存在していたらアメリカの人々は食事難になってしまう。絶対的に食事にたどり着くことが出来なさそうだから。
「ようやく一緒にいられるんだからいいじゃん。」
「……いいでしょ、これからも一緒なんだし。」
「一分一秒惜しめよ。」
 もう惜しむものなんてないし、きっとそれは寿命を全うして人生が終わる時でしかないはずなのに、そう言われると惜しいような気がするから言葉が持つ魔力というものは恐ろしい。
「とりあえず食べようよ。」
「……冷めて不味くなりそうなもんないけど?」
「レバニラとかはそうでしょ。」
「もっと精がつくだろ。」
「あの……そういう意味じゃないのでやめてくれる?」
 計り知れない不服を飲み込んだ彼が何で納得してくれたのかは分からない。それが万が一にもレバニラが冷めるという理由なのであれば、普段は絶対に買うことのない珍しい食材に手を伸ばした自分に感謝をするしかない。
 一人暮らしにしては広いこのリビングは気に入っていたけれど、やっぱり二人だとかなりの圧迫感がある。どこにいても彼との距離感が近いからだ。
「でもこんなに食ったら腹重すぎて動けない。」
「あ〜……それはそうだね?」
「まあ、食べるんだけどね。」
 気持ちの切り替えがあまりにも早いリョータは両手を合わせると、まずローストビーフに箸をつけた。あまりリアクションが大きくはない彼だけど、ちゃんと「…うまっ」と言ってくれたので、今日の調理時間のストレスは全てそこで解消される。
 大袈裟に美味しいと褒められるよりも、こうして食べている途中でさりげなく溢れる感想の方がよっぽど自然でリアルで私の心には突き刺さる。これを知っていて意図的にやっているのであれば彼は驚くほどにあざといという事になる。
「全部俺のために作ってくれたの?」
「……私も食べるためだけどね。」
「そこはいいじゃん、俺のためで。」
 最初の一日二日は時差ボケがかなり辛そうで、日本に帰ってきてすぐに寝ていたリョータをある程度自由にしながら仕事に出掛けていたけれど、三日目になるとすぐに日本の時間に順応しているようだった。
 アメリカとの遠距離をしていた時はその連続で、お互いとれる休みの限度なんて三日か四日くらいとしれたものだ。お互い時差に数日すれ違いの生活をしていれば、少し一緒に過ごしてお別れの時間になる。それが、もうないのかと思うと不思議な気持ちだ。
「めちゃくちゃ美味しいんだけどさ……」
「ん?」
「流石に全部食えない。」
「うん、間違いなくそれ正論だと思う。」
 彼は台所からラップを持ってくると、残った食材を申し訳なさそうにラップで包んでいく。何も悪くないし、万が一にもこれを完食していたら明日は体が重くて彼のスピードが自慢の電光石火は出ないだろう。
「でも嬉しかった。」
「……そう?」
「うん。」
 一緒に冷蔵庫へと食事を運んでいく最中、彼は台所にある給湯ボタンをポチッと押し込んだ。そして風呂場へと向かって……おそらくは栓を閉めているのだろう。あと二十分もしない内に「お風呂が沸きました」という音声が響く。家主が頼んだ訳でもないのにだ。
「……まだ七時じゃん。」
「早く入っといた方がそのあと楽でしょ?」
 私はこの早すぎる給湯ボタン押下の理由を知っている……というか、彼が帰国してきてからほとんど毎日のルーティンになっているからだ。
「こっちおいで。」
 二人座るには少し狭いソファーに腰掛けているリョータが、私を呼び寄せる。意図がわかっているのに、そう言われるとどうしても私も自分の意思に逆らうことができない。結果をわかっているのに、その腕に誘われる。
「……昨日もしたよ?」
 粘着質な唇の交わりを一度遮ってそう言えば、今更何を言っているのか?と不思議な感情と不服な彼の顔が覗いていて、少しばかり怯んでしまう。
 時差という足枷があったのを別として、彼が日本に帰ってきてからのこの四日間、私は彼に支配され続けている。それは長く付き合っていながらも一緒にいることのできない不遇な時代を長く過ごしたからという理由もあるのかもしれない。
 次の仕事に支障がない範囲で、私もそれを受け入れていた。
 けれど、明日は彼の日本でのデビュー戦だ。つまりそれは公式戦に出るという事で、万が一にも前日の何かで力が出せませんでしたでは言い訳にすらならない訳で……だから今日は栄養価が高く滋養強壮に効くそんな料理を用意して、そして明日に向けて早く寝るつもりでいたのだ。
「うん。」
「……明日移籍後の初戦でしょ?」
「そ〜だけど?」
「そ〜だけどって……そういう日の前日は普通ダメでしょ?」
 リョータとは高校一年生からクラスメイトで、大学二年生になって語学留学をした後に付き合った。恋人同士でありながらも友人としての付き合いも長く、そして晴れて恋人となってからも付き合いのほとんどを遠距離で会えないまま過ごしてきていたのだ。
 嬉しくない訳じゃない。
 無骨な態度と相反して私を求めるその腕はとても優しくて、私を安心させてくれる。この四日間だって信じられないほどに幸せでしかなくて形容し難いものがある。
 だから、恥ずかしいのだ。甘えるのも得意でなければ、愛情を表現してくれた彼に対しての反応もおそらくは彼の希望に添うものにはなっていないだろうから。求められるのが恥ずかしくて、お風呂に入ってないからという断りを文句を述べていたら早い段階で風呂を沸かされるようになってしまった。それがここ数日のルーティンだ。
「なんで?」
「なんでって……」
「ちなみにアメリカでも俺絶好調だったけど?」
 アメリカで一緒にいた時のことを思い出して、体に熱を持った。基本的にスポーツ選手にとって前日の欲は禁じるべきと聞いたことがあるような気がするけれど、そんな事はないんだろうか。
「寧ろ調子いいんだけど、なんか問題ある?」
「問題あるって……倫理的に問題あるでしょ。」
「俺わざわざ昨日彼女と、なんて言わないよ?」
 そんな言葉は特別意味もないように掻き消されて、二人だけの時間に消えていく。友人の期間が長すぎたが故に、付き合って何年経っても消えることのない違和感と羞恥心に飲み込まれながら、どうしようもない幸せな時間に消えていく。
 明日がどんな日かなんて関係ない、そこにリョータがいるという事実。そんな幸せに、私は結局争うこともできずに溺れていく。
「お風呂が沸きました。」
 聞きなれたメロディーと機械音が紡ぐその言葉を聞きながら、私は今日も昨日までの三日間と同じ日々を過ごしていく。今まで感じたことのない自分自身の拗らせた感情と気持ちに戸惑いながら、私も腕を伸ばしていく。
 そのメロディーは、いつだって私の表面的な言葉の意味を満たさず、心の奥底にあるそんな欲望だけを満たしていく。



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