1.足元に夜のかけら

 恐怖という感情は、少し遅れてやってくる。
 少なくとも私にはそう感じられた。本当の恐怖とは、その恐怖をしっかりと受け入れた時に初めて認識されるものだからだ。時間をかけて咀嚼をしたあと、それが分解しきれない時、私の場合恐怖として襲いかかる。
 まさに今、私の身体は恐怖で支配されていた。
「リョータ、やめ、やめてって………」
 恐る恐る喉元を出てくる私の声、荒々しいリョータの息。ちょっと怒っているかもしれない、そんなレベルじゃないのは理解できるリョータのかんばせが映り込んで苦しくなる。何故怒っているのだろうかと考え、その真意に辿り着いた時にもう一度私は恐怖を感じるのだ。
 こうして時間差で何度も恐怖が襲ってくるようになったのは一体いつからだっただろうか。
 初めからこうだった訳じゃない。元々私とリョータは高校時代のクラスメイトで、休み時間顔を合わせれば会話をするくらいには仲のいい友人関係にあったのだから。
 あの夜が、私とリョータの進むべき方向を歪めてしまった。本当は道標があったのかもしれない。もっと冷静になっていたのなら、もっと心を強く持っていたのなら。
 全ては後の祭りという言葉で方が付く。
 私たちは先に進むことができなければ、後ろに戻ることもできない。強いてできる事があるとすれば、それは唯一“継続”すること。ただそれだけだ。
「やめてって……、ここどこだと思ってる?」
「…………」
「そういうことする場所だよ?」
「ちょ、っと…ね、やめてって!」
 ラブホテルの大きな丸いベッドに投げ飛ばされていた。こんなに強引で乱暴な扱いを受けたことは未だかつてない。そして、こんなリョータの顔もはじめて見た。いつもと同じ空間なのに、いつもと違う状況だった。
「さっきのあれ何だよ?」
「…別に関係ないじゃん。」
「関係しかないだろ、そういう手法なの?」
「手法って……そんなつもり、」
「欲情させたいわけ?」
 否定しようと思って、途中で思い改って止まる。多分それは完全に否定できるほどはっきりしたノーではなくて、限りなくグレーな部分だと思ったからだ。そしてもっと怖いのは、ある程度この状況を想像していた自分にだ。
 恐怖はリョータに対してだけ感じている訳じゃない。むしろそう感じているのは自分に対してなのかもしれない。世にも奇妙な物語は実在するらしい。
「じゃあなんなの?」
 言葉だけを切り取ればとても柔らかく聞こえるその言葉。実際はとても刺々しい。怒りの感情がある事は間違いがないとして、これは彼にとって一体どんな感情なんだろうか。私にはそれがよく分からない。
 リョータとの距離が近づく毎に、リョータが分からなくなる。
「今日はそういうつもりで来たんじゃない。」
 リョータとこうしてホテルに来るようになって早いもので半年が経つ。その間、徐々に、とても緩やかに、私はリョータのことが分からなくなっていった。
 布切れ一枚ない素肌を晒してこうして一緒にいるのに、だ。なかなかにおかしな話だと私自身そう思う。リョータと会う回数を追うごとに、それはより色を濃くして私に迫り来る。そしてそれは積み重なると恐怖へと変わる。
「じゃあ、なに。」
 普段の優しい口調と、それに反比例するように落ち着きなくとても苛々としているリョータを認識してしまって一度怯む。私だってなにもリョータを困らせたい訳じゃない。怯んでしまったのは、これから告げることに対してだ。先に怯んでおかないといけない。私が告げようとしている言葉には、それくらいの覚悟が必要だろうから。
「今日で終わりにしよう。」
「…なにを?」
「こうやってホテルくるのも、会うのも。」
「本気で言ってんの?」
「うん、それを言うつもりで来たから。」
 私の口からそんな言葉が出てくるとは露程にも思ってないリョータのかんばせがそこにある。でも、どうしてそんなに驚いているんだろうか。私たちのこの関係を示せる真っ当な名前なんてなにもないのに。
 まだ素直な心を持っていたあの頃には、友達には戻れない。やっぱり私たちは前に進むことも、後ろに戻ることもできない。ただ“継続”するというだけの関係に明るい過去の思い出はあっても、明るい未来など到底用意されていないだろう。
 本当は、あの一日限りで終わる関係だったはずなのに。
「聞きたくはないけど、理由は?」
「聞いてどうするの?」
「どうするか聞いてから決める。」
「……じゃあ言わない。」
 もちろんそんな回答で納得するはずもなくて、私はまだ体勢すら整えることを許されていない。半分捲れ上がっているブラウスを正しい位置に戻したくらいで、まだリョータに組み敷かれたままだ。真上から私を捕らえているリョータの視線がダイレクトに突き刺さる。
 とても痛い。物理的に、心理的に。
 強引に問い詰められるかと覚悟を決めていれば、急に幼いかんばせを覗かせたリョータがぽろりと核心を突いた。
「三井さんでしょ、一緒に車乗ってたの……」
 それはお互い言葉にしなかっただけで、待ち合わせ場所で顔を合わせてから今に至るまでほとんど分かっていたことだ。何故ならそれはリョータが言った通りの事実でしかなくて、私は三井さんの車で待ち合わせ場所まで行ったのだから。
「なんで三井さんなんだよ……」
「なんでって、」
「俺が昔三井さんと色々あったの知ってるよね?」
「…どうかな、仲が良さそうって事は知ってる。」
 なんで三井さんなのか。私自身も一緒にそれを考える。なぜなのか。
 多分三井さんじゃなきゃ駄目だし、他の誰でも駄目だったのだろうと思う。私の中で消えないこの恐怖を取り除くには、三井さんが必要だった。
「俺のこと怒らせたかった?それとも逆に俺がなんか怒らせるようなことしちゃった?」
「……そんなことない。」
「じゃあなんで……、なんで三井さんなんだよ!」
 こうなる展開はある程度読んでいたし、なんならこうなるだろうとそう思っていたのも事実だ。
 リョータと三井さんの間に確執があったのなんてもう遠い昔のことで、期間にしたら多分半年もないだろう。そして、今はきっと誰よりも仲がいいのだと思う。
 嘗て湘北高校バスケ部に所属していた面子は各々の道へ進んでいる。
 大学卒業後一般企業に就職した赤木さんと木暮さん。高校卒業後に渡米してアメリカで活躍する桜木くんと流川くん。日本のプロリーグで現役選手として活躍しているリョータと三井さん。
 特別、三井さんとは今も尚交流が深いに違いない。
 バスケ関連の雑誌で二人が特集されている記事を見たことがあった。インタビュー記事をパラパラ読み進めて二人が今も仲が良い事は窺い知れるそんな内容だったと記憶している。
「じゃあ三井さんじゃなければいいの?」
 誰も幸せになれない構図と、そして質問。この場においてはタブーに近い言葉。言った後、やっぱり私は自分のその言葉にゆっくりと恐怖を噛み締めた。
「……そういう訳じゃないけど。」
「なら三井さんでも別に問題ないでしょ。」
「それとこれとは話がちがうだろ……」
「全然ちがわなくないよ。」
 聞きたいようで、本当は一番聞きたくないことだった。それが自分の価値と言われているような気がしたから。リョータは言葉を濁していたけど、その真髄となる部分を知りたくないのは寧ろ私の方だ。だからそれ以上深掘りする事はしなかった。
「……三井さんのこと好きになったの?」
 私たちの中には明確なルールが一つあった。今のこの関係を“継続”するのであればそのルールが必要だと思ったからで、私から提案したことだ。
 気になるひとが出来たら、この関係を解消すること。
「うん、そうだよ。」
 たった一つだけ設けた、私たちのルール。そもそも私たちのようなこのふわふわした関係のふたりには、言語化しなくても暗黙的に敷かれているルールでもあるだろう。それを私が言語化して伝えていたというだけのこと。
「……いつから?」
「どうだったかな。」
「てか本当にほんとなの?」
「いま言ったじゃん。」
 理由を作り上げる上で言えばちょうどよかった。この話の相手が三井さんであることによって、色んな整合性が取れるからだ。それはリョータにとっても多少は信憑性のある話になるだろうから。
「だから帰るね?」
「ちょっと待ってよ…!」
「待てない。」
「じゃあ帰さない。」
 私たちは所謂そういう関係だけど、ちょっとその枠に収まりきらないところがある。私自身、リョータと二回、三回と会う度に驚かされたことでもあった。
 待ち合わせをして、そのままホテルに直行したことは今日を除いて、未だかつて一度もない。そういう関係なのに?何度も続くその状況に私が一番驚いた。
「ちょ…や、あ……」
 リョータの支配下から全く解かれていない私に体の自由はなくて、結局こうしてなし崩しになっていく。強い意志を持って今日ここに来たはずなのに、結局この必死なかんばせを見ると全てが帳消しになってしまうのだ。
 きっとリョータは、私を通じて別のひとを見ている。
「三井さんとどこまでしたの?」
 私に必死になるはずがない。高校の時からブレることなく真っすぐ伸びるその綺麗でキラキラとした純粋なあのひとへの想い。私を抱くことで、それを重ね合わせているんじゃないかって。
 そう思うようになったのはこの関係が始まって二ヶ月程が経った頃だ。
「ここが弱いこともちゃんと知ってる?」
「…うっ、ぁ…やめ、て…」
「ちゃんと答えてよ、」
 もっと分かりやすい関係だったらよかった。シンプルに割り切って、こうしてホテルに来るそんな関係。少なくとも当初の私は割り切っていたはずだった。それが私たちの関係において普通だと思っていたからだ。
「どこが俺よりいいのか教えて?」
 そんなこと、言えるはずがない。
 リョータは二週間おきに私の予定を確認する。月に少なくとも二回から三回は会うというスケジュール感だ。まるでそれは彼女と予定を合わせるような頻度だ。プロのバスケ選手は想像以上に忙しく、そして私のような土日休みの社会人と予定を合わせるのは結構難しい。
「俺と違って優しかった?」
「ち…、ちがうっ…」
「ならなに、もっとフィジカルなことなの?」
 ひと言リョータが紡ぐ度に、この半年間でしっかりと分かりきっている私の身体は彼に支配され、そして翻弄されていく。しっかりとした意志を持って、私はここから立ち去る手筈を立てていたはずなのに。
「もうやめてよ………」
 私の心からのメッセージは、リョータに通じない。
 私たちが俗になんと呼ばれる関係なのかを、リョータは知っているんだろうか。知っているに決まっていると思う私と、本当に分かっているのだろうかと少なからず疑問を抱く私が共存している。
 二回目の誘いが来た時、待ち合わせは歓楽街だと思っていた。
 けれどそれは違っていて、呼び出されたのは横浜駅のデパート前。何をするのか背中について行けばウインドウショッピングが始まる。いつまでそれを続けるのか見ていれば、時々クレープを買って一緒に食べ歩きをすることもある。
 雨が降っていればおしゃれなカフェに入ってのんびりご飯を食べるし、夜は飲みにいく。
 私たちの関係性を考えた時、これは分不相応な気がしてならなかった。これではまるで彼女とのデートそのものだから。ホテルに直行しないだけでも驚きなのに、リョータはとても私に時間をかけてくれた。
 飲みに行った後、もっぱらホテルに行くのは夜更けごろだ。決まって、終電がギリギリない際どい時間帯にリョータのその言葉が聞こえてくる。「終電もうないんじゃない?」それがまるで、合言葉のように。
「やめない。」
「……い、…やだ、」
「……いやがらないで。」
 結局何が怖くなったかと言えば、この関係に平常心を保てなくなった自分に対してだ。半年の時間をかけてゆっくりと恐怖を作り上げてしまった。自分自身で。
 こうなった当初、そんなこと思いもしなかったのにどうして。
 その優しさが自分だけに向いていたらいいのに。
 そう思った瞬間、全てが崩れ落ちていくような感覚を覚えた。その感覚・感情は一体なんなのか。噛み砕いて咀嚼した時、私はその正体を自覚して、そして恐怖に襲われたのだ。
「なにが足りない…?」
 足りないものなんて何もない。むしろ、足り過ぎているくらいだ。有り余るリョータのその優しさが何よりも私にとっては毒となり、そして罪になる。

 好きなひとが出来た。だからリョータとはもう会わない。
 私はただ、ルールに従っただけ。

2.過ちを犯すための一夜