2.過ちを犯すための一夜

 再会というものはいつも突然やってくる。
 そうでなければわざわざ“再会”なんて仰々しい言葉で表現はしないのだろうけれど。会社の飲み会でよく使っていた飲み屋のカウンター、そこに彼はいたのだ。ひとりで。
 声を掛けるか、正直少し迷った。
 高校を卒業してから長い年月が経っていて、そしてその間彼とは一度も会っていない。私からすれば彼は同級生というよりは最早有名人というカテゴリーに分類されていた。土曜日の深夜、スポーツニュースでその姿が映った時は驚いた。
「……え、もしかしてちゃん?」
「うわっ……、」
「うわって…、これナンパしたみたくなってる?」
 高校二年生の頃、まだ当時無名だった湘北の名を世間に知らしめた立役者のひとりだ。それが自分の同級生で、かつてクラスメイトだったなんて結構な贅沢だろう。仲が良かったという事実を思い出す前に、テレビで映っていた有名人という意識が先行してなんだか変なやり取りになってしまった。
「ううん、なってないです。」
「なんなのその妙な敬語。」
「だって久しぶりだし、有名人だし……」
「はは、なんだそれ。」
 数年ぶりに再会したリョータは高校時代よりもなんだか人あたりがよくて、そして何の抵抗もなくすんなりと私を受け入れてくれた。少し声をかけるのが躊躇われた自分を不思議に思うほど、そのやりとりは高校時代のあの時の私たちのままのような気がした。
「久しぶりだね、卒業以来?」
「あ〜、うん。たぶんそう。」
「ここには良く飲みにくるの?」
「会社の飲み会でたまにね。」
「そっか、じゃあ今日も?」
「そう、会社の飲み会中です。」
 もしかして一緒に飲み直そうとでも言ってくるのだろうか。次の言葉が出てくるまでの妙な間があったからだろうか、そんな事を思ってしまったのは。勝手にひとりで考えてどきどきしたのを覚えている。
「来週の金曜日は空いてたりする?」
 どういう意味だろうか、そう疑問に思う。だからあえて理由を尋ねることはしない。きっとその言葉に隠された意味なんて特にないだろうから。自分で予防線を張る、これは昔から私の癖だ。自分を固めることは、時に助けにもなるから。
「うん、今のところは。」
「そっか、じゃあ俺来週も来ようかな。」
 明確な約束をした訳じゃない。ほとんどニュアンスで読み取るような、そんな会話。今にして思えば、それくらいの方がより記憶に残るものなのかもしれない。その日から次の金曜日までの一週間、ふいにリョータの事を思い出した。一度じゃなく、何度も。
「戻らないと会社の人心配するんじゃない?」
 率先して私を元いた席へと戻るよう促すリョータのスマートな対応が大人な男のひとのように思えたからなのか、心臓の音が緩やかに煩かった。
 けれどそれがリョータだからという確証はない。“再会”という特別な響きがそうさせていただけで、他の誰でも起き得ることなのかもしれないから。
 結局次の金曜日、私はリョータと再び“再会”をして、そして関係を更新してしまった。一度それを更新すると、もう二度と元に戻れないことなんて知っていたのに。更新するためには全て上書き保存が必須で、そして保存した後に元に戻る術はない。
「俺の好きな子、全然俺に振り向いてくれないんだよね。昔っから。」
 リョータのその言葉をアルコールと一緒に飲み込んで、そして始まった関係だった。





 酔っていて記憶を美化している可能性は否定できない。
 初めてリョータとそうなった時、元々持っていた彼のイメージが百八十度変わった。少しだけ重たそうなその瞼から覗く琥珀色の眼差しがなんだか色っぽくて、その眼差しを独占しているような気分になってしまった。とても艶っぽいのだ。
 信じられないほどに優しく、そしてゆっくりと押し付けられたその唇はたっぷりと時間をかけて私に降り注がれた。恋人同士がするように、とても丁寧で優しく。
「再来週の日曜日なにしてる?」
「…ん?」
 翌日目を覚ますと、身支度を整えているリョータが視界に入って私の一日が始まった。慌てて時計を探して確認すると、八時五十分。まだチェックアウトまでは一時間以上あるようだった。
「会おうよ。」
「え?」
「予定あるならその次でもいいけど。」
「ちょっと待って、そうじゃなくて……」
 まさか次があるとは夢にも思っていない私はうまく言葉を繋げず思いっきり狼狽える。元々が同級生で知り合いだったという点があることを差し引いても、次があるとは思わなかった。
 万が一にでも私とのことが記事になれば将来有望な彼のバスケ人生を潰しかねない。そのあたりはリョータが一番認識しているものだと思っていたのだ。
 一昔前に比べると日本でも随分とメジャーなスポーツになったバスケ、そのプロ選手であるリョータにとってこんな事はリスクでしかない筈だ。真剣交際!と、高校時代の同級生とワンナイト!ではイメージが違いすぎる。後者にしかなり得ない私は彼にとってのリスクだ。
「え、だめなの?」
「だめって言うか………」
「じゃあなに?」
「普通さ…、普通はっていう仮の話ね?」
 言い逃れをしようと思われてしまったのかもしれない。疑心暗鬼なかんばせで、なんだか僅かに不安そうなリョータがそこにいて。まだ起きてまもない寝起き早々の出来事で私の脳みそが誤判定をしている可能性もやっぱり否めないけれど。
 そのかんばせは、なんだか高校時代を彷彿とさせるリョータのようで、少しだけ幼く見えた気がした。
「こういうのって普通次はないんじゃないかな。」
「…どうして?」
「どうしてって…世間一般的にはね、たぶん。」
「ふうん?」
 そもそも付き合う訳でもないのに、一度体を重ねた上で二回目があるのはどうなんだろうか。人間の本能的な部分からすればそれは合理的なのかもしれない。けれど倫理的に考えた時、それはとても不純なことなんじゃないだろうか。
「じゃあ普通じゃなくていいから、会お?」
 腕時計をつけてポットの電源を入れていた筈のリョータは、そう言うとまだ寝起きで頭が回りきっていない私の元へとやってきて、そして昨晩を思い出させるような角度で私の唇を啄んだ。
 イエスもノーも言えたものじゃない。
 啄むような唇の戯れから徐々に形を変えて、リョータの右手はベッドのスプリングに抵抗するように沈み、左手は私の髪を絡めとるように優しく添えられている。昨日同じような状態でそのままベッドに沈んでいったことを思い出した。
「俺が会いたいから……」
 そんな事を言われても尚、抵抗できる女などいるのだろうか。
 結局私が二回目以降もこうしてリョータと会うようになった理由はこの言葉だけじゃない。きっとそれはあまりに優しすぎる彼のセックスが、私を愛でるその指の一本一本が───。
 私自身が満たされていたという事実があって、初めて成立する関係でしかないのだから。
 断らなかったんじゃない。それは知らず知らずの間に私もまた会うことを望んでいたのだろうと思う。今にして思えば、とそんな補足が必要になってしまうけれど。
 この時から既にフラグは立っていたのだ。
 どうしてこの時の私は、この関係を継続しようと思ったんだろうか。過去に戻れるなら今すぐに自分を引き止めたい。どうして割り切った関係を継続できると思ったんだろうか。そんな事、絶対に無理でしかないのに。
「それでもだめ?」
 駆け引きを持ちかけられた気がした。
 だから私も駆け引きを持ちかけることにしたのだ。二回目以降も会う事の条件として、気になるひとが出来たら、この関係を解消すると告げて。この関係においてそんな事をわざわざ言葉にする必要なんてないのに、敢えて言語化して。まるで自分に言い聞かせるように。
「……わかった。」
 勘違いしそうになるほどに優しく押し付けられるその唇も、愛でるように私を撫でるその掌も、優しく包み込んでくれる腕も、全てが私を満たしてくれる。
 リョータから与えられるもの全てが私を満たしてくれるのにたった一つだけ得られないものがあった。
 リョータが私をどう思っているのか、その確証となる言葉が耳に入ることはなかった。それはあの最初の夜から、今に至るまで一度も。
 だから割り切らないといけないんだと、最初の夜にそう思った。それから半年、そんな関係は継続されていて、そして先ほど自分で終わらせてきたばかりだ。





 今日で終わりにしたい。
 そう告げてから約半日ほどが経過している。完全に怒りを買ってしまったらしい。あれからどれ程体を合わせたんだろうか。もう正確な回数を覚えていない。
 その都度ちかちかと意識が朦朧として、意識を取り戻した時、残っている気力と体力を使ってベッドを這いあがろうとして、仮眠を取っているリョータに見つかる。同じような事を呆れるくらいに何度も繰り返していた。
「リョータ練習は……」
「もうとっくの前に始まってる。」
「ダメだよ、そんなの……」
「誰がそうさせたか分かってるの?」
 一時間毎に鳴り響くコール音はリョータが毎回取って、そして延長を申し出る。延長したいなんて私は一言も言っていないのに、そんなことはお構いなしだ。
 高校生の頃、友人に誘われて見に行った翔陽戦。自分よりも一回り二回り背の高い面子に囲まれながら電光石火のように道を切り開いたリョータのバスケがとてもかっこよかった。体育で少しやったことがある程度のルールも大して知らないにわかながら、そのプレーにとても感動したのだ。
「分かったから……だから、練習行って?」
「…………」
「お願いだから。」
 授業中は上の空だったり寝ていたり、そんなリョータをよく知っていた。だからその翔陽戦を見た時、一気に見え方が変わって広がった。きっとそれだけリョータにとってバスケがかけがえのない大切なものだと、そう分かったから。だから、私のことが理由で練習に行かないという事は許されない。リョータを許せないんじゃなくて、そんな理由を作っている私自身を許せないのだ。
「じゃあ練習終わったら会うって約束して。」
 どうして私にここまで固執するんだろう。まるで理解ができない。私に拘らなくても都合のいい相手なんて、今のリョータからすれば容易く作れるだろうに。それが私でないといけない理由なんてどこにもない。
「……分かった。」
「ほんと?」
「うん、ほんと。後で連絡する。」
「……信じていいの?」
 こんな関係に生産性も未来もない。リョータがとても大切にしているバスケの時間を奪っている現実しかない。私にはその権利もそれに見合うだけの価値もないのに。どうしてリョータはこれほど私に固執しているのだろうか。何がそうさせているのか、まるで心当たりはない。
 都合がいいと言えばそうなのかもしれない。高校の同級生だ、よっぽどのことがなければ自ら週刊誌にネタを売り込むようなことはしないだろう。懸命な判断のできる同級生ならば、の話に限定されるけれど。
 果たしてそれがここまで固執する理由になり得るものなのだろうか。
 しばらく使っていない放置された自分のおもちゃが横取りされた時のような、きっとそんな感じに近いのかもしれない。本質的に私がどうこうという訳ではないのだろうと分かっているから。分かっているから、とてつもなくしんどい。
「バスケを疎かにするリョータは嫌だし、その理由になってるのが私だったらもっと嫌。」
 この言葉ならリョータもダメージを食うんじゃないかとそう思ったのだ。紛れもない私の本心であり、きっとそれをリョータもちゃんと感じ取ってくれるだろうから。監禁に限りなく近いこの状態から脱する為には必要な言葉だった。
「……わかった。」
 ようやく、半日ぶりに外の空気を吸った。





 体がとても怠い。
 歩いているだけでも倒れそうなくらいの怠さが全身を覆っている。あのままリョータを練習に行かせないわけにはいかなかった。その為に鬼になる事を選んだのだ。そうでもしないと、あのホテルの一室から出られないような気がしたから。
「三井さん?」
 あの後三井さんに連絡を入れた。すぐに既読がついて、けれど返事はなかった。彼も練習中なのかもしれない。暫く待つつもりで向かったマンションのロビーにそのひとはいた。
「お前から連絡来ると碌なことじゃねえからな。」
「怯えてるんです?」
「そ〜だよ、死ぬほど怯えてるわ。」
 もう既に巻き込んでしまった人なので、怯えていると言いながらもきっとある程度状況を読みながら落ち着いた対応をしてくれているのだろうと思う。
「部屋にあげてもらえませんか?」
「やだって言ったら?」
「そんな事言えないの知ってますから。」
「随分お前に都合が良くできてんだな?」
「そうかもしれません。」
 リョータとの関係を終わらせるには理由が必要で、私は彼をその理由になり得るひとにしてしまったのだ。なんのメリットにもならないこんな事に勝手に私が巻き込んでしまった。
「何だかんだ優しいですもん、三井さんは。」
 少し遠くでカシャンとなにか音が聞こえたような気がしたけど、気のせいだったのかもしれない。私にはそれを判断できるだけの気力も体力も残されてはいなかった。



3.魔法使いの右手