3.魔法使いの右手 リョータを初めてその箱の中で見かけたのは今から一年ほど前のこと。湘北高校を卒業してからその行く末を知らなかったが、その箱はつい最近まで米国にリョータがいたのだと教えてくれる。これから日本のプロリーグに籍を置くらしい。 日本のプロリーグで活躍する男を、私はもう一人知っていた。 それは私の高校時代の一学年先輩だったひとで、そして同時に私の大学の先輩でもあった三井さんだ。彼が自分と同じ大学の学生だと知ったのは入学してからかなり後のことで、私が大学三年、三井さんが大学四年生の時だった。 第二希望で出していたゼミに、彼はいた。 「…ん?おまえは、」 元々声をかけるつもりはなかった。三井さんに関してはほとんど私が一方的に知っているだけで、特別絡んだことはない。一度翔陽戦を見に行った時に見たというくらいの関わりしかない。 万が一にでも三井さんが私を知っているにしても、試合が終わった後に少しだけリョータと安田くんと話しをしたのを見られていたくらいだろう。名前も顔も、認識している筈がない。 ちらちらと何度か三井さんを視界に入れると、その視線に気づいた彼がこちらを見て、そして少し首を傾げながらも確実に私の名前を呼んだ。 「だ!おまえだろ?」 「……え、」 「なんだ、もしかして間違ってた?」 「あ、いえ…苗字じゃなく名前呼ばれるとは…」 「宮城がそう呼んでただろ、たしか。」 認識していないどころか名前と顔をはっきりと覚えられていたのは正直相当驚いた。一度も会話を交わしたことのない相手を、しかも復帰間も無く体力的に限界だった時にちらっと自分の後輩と話していただけでしかない私を。 「同じ大学だったんだな。」 「みたいですね、私も今知りました。」 「めちゃくちゃ奇遇だな?」 三井さんは人に対しての壁がまるでなくて、そして気さくな人だった。 高校時代グレていた事実を知っているだけに何だか不思議な感じもした。大して知りもしないくせに、三井さんに対するイメージが変わったのはこれで二回目のことだった。 バッサリと髪を切って綺麗なシュートフォームから繰り出される三ポイントシュートを思い出した。本人としては不本意だったかもしれない、けれどとても心に残る試合は当時の私を感動させた。 そしてゼミで“再会”した二回目、とても親近感のある親しみやすい人だとそう思った。 リョータにもその話をしたことがある。 三井さんの話を出そうと思って出した訳ではなく、話の流れでそうなったというだけで。大学三年生の頃、三井さんが同じゼミにいて何度か飲みに行った事を弾みで話したことがあったというそれだけのこと。 「ちゃんってさ。」 「ん?」 「三井さんのこと好きなの?」 どうしてそんな話になったんだろうか。何か余計なことを言ってしまったかと自分の言葉を振り返っても特別おかしなことは何もなくて、どこにでも転がっているような在り来たりな世間話に過ぎない。 「急に話が飛躍しすぎてない?」 「……で、どうなの。」 「どうって……」 「テレビで映るたびに話すじゃん。」 「そりゃまぁ…知ってるひとだし。」 桜木くんや流川くんの情報がニュースで流れた時とはまるで違うそんな反応だ。特別三井さんの話ばかりしていた訳でもないのに、いつもリョータは三井さんの話題になると眉を顰める。 「かっこいいって言ってたよね、むかし?」 「そうだっけ?」 「そうだよ、言ってた。」 三井さんの話をしたくなさそうなくせに、話を逸らす訳でもない。なんだかよく分からない質問をしてきていつもこの話題になるとリョータは私を困らせた。嫌なら話題を変えればいいのに。 リョータと三井さんの間に色々あったことは私も知っている。詳しい詳細を知っている訳じゃないけど、なんとなく想像はつく。リョータは入院して、しばらく学校に来なかった。きっと多分、間違いなく、そういうことだ。 「記憶にないけど、でも良いひとだよ?」 結局なにを言ったところでリョータにとっては正解じゃないんだろうと思う。でも、一体それは何故なのか。私の記憶が正しければ、寧ろリョータと三井さんは仲が良かったはずだからだ。 「寧ろリョータの方がよく知ってるでしょ?」 「…………」 「とにかくそんなんじゃないよ。」 ホテルで一緒に見ていた夜のニュースがぷつりと突然フェイドアウトする。 つい先程まで機嫌良く私と同じチューハイを手に持っていた筈なのに、私が視界に映した彼はやっぱり眉を顰めたままだ。どうしてそんな苦しい顔をするんだろうか。 「俺といる時くらい俺だけを見ててよ?」 そんな事を言われたら、余計に勘違いして私が辛いだけなのに。 どうしてかリョータと唇を重ねる時、決まって切なくなる。とても優しくて、そして丁寧に時間をかけて私の唇を絡め取ってくれるのに。いつからこの行為に、私は満たされなくなっていたんだろうか。 リョータのその優しすぎるキスが好きだ。 そして、苦しい。 三井さんの部屋に上がるのは二度目だ。 必要最低限のものしか置かれていない男らしさを感じるその部屋を見て、リョータもこんな部屋に住んでいるのだろうかと考える。私はリョータの部屋に行った事がない。正確に言えば、何度かその誘いを断っている。 三井さんの部屋には来れるのに、変なはなしだ。 「どうだったんだ、宮城とは。」 大まかな状況を察している三井さんのかんばせがそこにはあって、多くを語らずとも理解してもらえそうな安心感があった。 リョータと待ち合せをする時、三井さんと一緒にいるのが露呈したのは完全なる誤算だった。約束の三十分前に現着していれば問題ないと思っていたが完全に迂闊だった。 「三井さんと一緒にいるのバレてました。」 「あ〜、まじか。」 リョータに別れを告げると決めた日、私は三井さんを訪ねていた。一度目にこの部屋に上がったのはつい昨日のことだ。 三井さんと会ったのは随分と久しぶりだった。 大学卒業間際、ふたりで飲みに行ったあの日以来一度も会っていない。昨日私から突然なんの前触れもなく連絡をして、そしてこうして家に上げてもらったのだ。彼がプロになってから会うのは初めてだった。 「だからそんなにボロボロなのか、おまえは。」 「私ってそんなに今ボロボロ?」 「ボロボロだ、そんな顔してる。」 昨日、リョータとの全てを三井さんに話して、私はひとつ提案を持ちかけた。 そんな私の提案はものの見事、三秒で却下されたのだから笑えるようで笑えない。そこまで鮮やかにノーの返事が返ってくるとは流石に思っていなかったのだ。 とりあえず終わったら連絡して落ち合おう、それだけを約束して私は待ち合わせの少し前にあの場所に向かったのだ。それから約半日音信不通となっていた私の状況など、きっと事情を知っている三井さんじゃなくても凡そ予測はできるだろう。 ずっと必死に自分を保っていた分、急に拍子抜けたように体から力が抜けていく。恐怖も悲しみも、少し遅れてやってくる。 「……泣くなって言わないんだ?」 「言わねえよ。」 「なんか三井さんらしくないかも。」 「寧ろたくさん泣いとけ。」 昔、三井さんが大学を卒業する間際に言っていた言葉を思い出す。どうしてそんなにも優しい言葉が出てくるんだろうとそう思った。あまりに優し過ぎて、自分が駄目になるような気がしたのを思い出した。 「お前は全部一人で抱え込むから、だからたまには自分をうんと甘やかしてやれよ。」 大学で三井さんと再会してから一緒に過ごした時間なんて実質一年もない短い時間だったのに、そのたった一年もない時間で三井さんは私の本質を見抜いていた。 「抱え込むなって言っても無理だろうからな。」 性分なんてそうそう変えられるものじゃない。変えられるものならもっと生きやすい世界があった筈だろう。それを変えろという訳じゃなくて、それを認めた上で私を受け止めてくれようとしてくれた。 彼の卒業前、私は一度告白されている。 「こんなに優しいのにどうして私のたったひとつのお願いは聞いてくれないんですか?」 三井さんの優しさにこうして何度も私は甘えてばかりいる。 私の事を理解するためにどれくらい私の事を考えてくれたんだろう。あの日どんな気持ちで私を呼び出してくれたんだろう。 私を好きになったことを、後悔しなかっただろうか。 「一回振った男にする事じゃないだろ。」 「もう、私じゃ駄目なんですか?」 「駄目じゃねえけど、お前が俺じゃ駄目だろ。」 昨日、私は無謀な提案を持ちかけた。リョータとの全てを話した上で、私を彼女にして欲しいという無謀でしかない提案を。 ものの三秒でその提案を棄却されたのに、それでも三井さんは変わらず優しい。 私を彼女にしてくれないくせに、そっと私を包み込むから。こんなに優しい三井さんからの告白を断って、そしてこうして自分都合でしかないことでまた彼の優しさにつけ入ろうとしている。 自己嫌悪に陥るのに、それでも三井さんを縋らずにはいられなかった。それほどに、私のフィジカルもメンタルも限界ギリギリのところで辛うじて保たれていた。 「お前のこと好きだからやっぱ駄目だ。」 彼にとってなんのメリットもないそんな感情を今も私に持ち続けてくれているというその事実に、胸が痛む。 この人を一番に好きになれたのなら、間違いなく私は幸せになれると分かっているのに。 それは苦しみから解放される為だけじゃなく、本当に私自身がそう望んでいるはずなのに。 「どれだけ願っても望んでも人の気持ちは操作できない。だから彼女になったところで辛いだけだろ、俺もお前も。」 正論でしかないその言葉が胸に突き刺さるように痛い。 「お前が宮城を好きな気持ちは、俺にはどうしようも出来ないからな……」 三井さんの腕が、強く私を抱きしめていた。 涙が枯れた頃を待って、三井さんの車に乗り込む。 車に乗ってからはほとんど会話はなく、気力と体力が底を尽きてしまってあまり記憶がない。恐らく眠っていたんだろうと思う。久しぶりに少しだけ心が穏やかだった。 「ついたぞ、歩けるか?」 優しく肩を叩かれ起きた私は三井さんに促されてシートベルトを解除する。 三井さんはマンションのエントランスに車を停めて、私の体を支えながらゆっくり歩く。自分の家に戻ってくるのが酷く久しぶりのような気がした。 鞄の内側のポケットを引っ張り出して鍵を取り出すと、ガチャリと差し込んだ。 「寝室どこだ?」 「その扉の、奥………」 意識が朦朧とする。体力と気力の限界を迎えるとそうなるものなんだろうか。体の怠さと一緒に体が熱っているような気がした。 「熱すごいから明日は会社休めよ?」 途中から記憶が曖昧になっていて、自分がいつからそんな熱を孕んだ状態になっているのかさえ今はまるで思い出すことができない。 ただひとつ、はっきりと記憶しているのは全てが終わったんだという紛れもない事実だけだ。 4.ポラリスに誓う |