4.ポラリスに誓う

 耳元で少しひんやりと感じたスマートフォンが、熱った体と同じ温度に切り替わるのはほんの一瞬のこと。
 耳を疑うような言葉がそこから私の耳へと入ってくる。良い事は立て続けに起こりにくいのと比較して、悪い事は驚くほど連続して舞い込んでくるものだ。今回もその例に漏れず、その知らせは既に不穏な空気を醸し出していた。
「……今日、ですか?」
 電話の相手は三井さんだ。
 あの出来事から二日が経ったが体調は芳しくない。魘されるような高熱からはようやく解放されて、体調が思わしくない中でも少し落ち着いたタイミングでもあったそんな時のこと。
「わかりました……はい、大丈夫です。」
 大丈夫という言葉に嘘はなくて、大丈夫じゃなくてもそれを飲み込むしかないと言い聞かせる。今更私が騒ぎ立てたところでその事実が変わることはないのだから。
「ほんとに色々ごめんなさい。」
 なんの罪もない三井さんに更なる迷惑を被らせている私に現状を嘆く資格などない。事実として、それを認識して対策するのがまず最初にすべきことだ。
 ──週刊誌に撮られた。
 熱愛報道として今日発売の週刊誌に記事が出るらしい。
 それは交渉の余地がある報告ではなく、既に出ることが決まっている上での報告で私にも三井さんにもどうすることもできない。比較的直前にならないと連絡が来ないらしいとワイドショーなんかで聞いたことがあった気がするが、どうやらそれは噂ではなく真実らしい。
 三井さんとロビーで落ち合った時と、私を家まで送ってくれた時と、二枚の写真が掲載されるということだった。
 何故か謝意を示した三井さんに対して、私は冷静にならざるを得ない。寧ろ謝るのは私なのだから。本来関わる必要のない人を巻き込んだ上、想像以上の大ごとになりそうな気がして思考回路がうまく働かない。
 もしかすると外観から家の位置を特定して記者が来るかもしれない。
 迷惑をかけ続けた私に対しても三井さんの優しさは健在で、少し体調が落ち着き次第手配しているホテルに避難するよう促してくれた。その好意に甘え、まだ芳しくない体を奮い立たせて荷造りをしていた時だった。
 今からどこに何をしに行こうとしているのか。
 分かっていた筈だったのに、一度高らかに鳴り響いたインターフォンの音に私はそのままドアを開けてしまった。開けた後に、どんな結末があるかなんて概ね想像がついていたはずなのに。
「……確認もしないで開けるなんて、警戒心なさすぎなんじゃない?」
 ベッドの脇に置いてあったスマートフォンが振動してガタガタと震えながら、この数日間散々耳に残ったあのメロディーを奏でている。目の前にいる彼が握りしめているそれはきっと──。
 この胸の高鳴りが恐怖なのか、否か。





 ホテルに泊まった翌朝、決まって目を覚ますのはリョータが後ろからそっと私を抱き寄せるタイミングだった。いつも必ず私よりも早く起きているようだけど、本当に寝ているんだろうか。そんな要らぬ心配をしたこともある。私が目を覚ますと、すぅっと息を吸って少しだけ照れくさそうに「おはよ」そう言ってくれる。それが私とリョータの朝のルーティンだ。
「次は俺ん家で会わない?」
 リョータと再会して関係を持つようになって三度目の朝、彼の口から溢れ出た言葉だ。
 そんなことは考えたこともなかった。彼女でもなければ最早友達でもない自分にとってそれはあまりにも高望みしすぎた願いだと勝手に判断していたのかもしれない。お互いの目的が果たせればそれでいい、そんな関係なのだから。
「……ん?」
「もしかして嫌?」
「嫌というか……どうしてとは思った、かな。」
 リョータに会えればそれでいい。
 それがこの時の私の目的だったからだ。こうして体の関係を続けているのは求められているからであって、それがきっとリョータの目的だろうから。私自身の目的は果たされているのだから、その分それがリョータの目的であれば断る理由もないと思っていたのだ。
「どうしてって……その方が一緒にいられる時間も増えるし、ホテルよりちゃんも落ち着くでしょ?」
 私たちは恋人同士じゃない。
 何にも分類されないカテゴリーの中で辛うじて繋がっているだけで、互いに私たちは何者でもない。いつ終わってもおかしくない関係だからだ。始まってもないのに終わりがあるなんてとても不思議な話だけれど。
「私がリョータの家に行く理由がないよ。」
 リョータのよりプライベートな部分を身近に感じてしまうことで、今の関係性を保てないとそう思った。もっと知りたいと、もっと近い存在でいたいと今よりも一歩踏み込んだ関係を望み、そしてのめり込んでしまうような気がしたから。
「理由なんているの?」
 きっとリョータにとってはそうなんだろう。
 でも私は違う。リョータみたいに割り切ることなんて出来ない。一緒にいる時は最大限私に尽くしてくれるリョータに期待してしまう自分に日々苦しさを感じてしまう。優しくされ、求められることを喜ばしく思う気持ちと共存しながら。
 感情がいつもごちゃごちゃになって、そして何が正解なのか分からなくなる。
「いるでしょ、私リョータの彼女じゃないし……」
「彼女じゃなきゃ駄目って決まりだっけ?」
「決まりはないけど……リョータも彼女出来た時とか困るでしょ?」
 一定の距離を保つべき関係なんじゃないだろうか。
 今まで恋人関係になる以外で、こうして関係を継続したことはない。なにが普通かなんて所詮私の所感や想像でしかないけれど、限りなく彼女に近いその待遇は、変な誤解と期待を生みそうだから。
ちゃんはいつもそう……」
 普段のリョータはとても温厚だ。常に私のことを考えて行動してくれるし、一緒にいる時はこちらが恥ずかしくなるほどに優しい。自分の存在が彼にとってどんな形なのかを今一度考えてしまうくらいには。
 この手の話になると、時折リョータはこうして異様に固執する。私たちの関係を名前にした時、それはとても乾いたドライなものでしかないのに、どうしてそこに固執するのだろうか。
 その度に、私はリョータが分からなくなる。一体彼は何を考えている?
「一緒にいたいからじゃ駄目なの?」
「…………」
「すごくシンプルで本質的だと思うんだけど。」
 昨晩外した大ぶりのピアスを化粧台で付けていると、鏡越しにリョータのなんとも表現し難いかんばせが見えて腹の奥底がキュッとなる。けれどそれを出さず、極力平常心を装ってキャッチを手にしてピアスを固定する。
「ねえ、?」
 いつも優しく私を呼ぶその声が、私の名前を呼び捨てる。普段の呼び方と違って、何かを訴えるようなそんな意味を孕んで。心臓がうるさい。
「なあに、リョータ。」
 声が裏返りそうになるのを堪えて、もう一度平然を装う。それが思わしくなかったのか、鏡越しに見えていたリョータが痺れを切らせたように後ろから腕を絡ませて、身体の割にとてもごつごつとした大きな手で私のフェイスラインに触れ、親指で唇をなぞる。
「どうしてそうやって俺を遠ざけるの?」
「……遠ざけてなんかないよ。実際に今こうして一緒にいるでしょ?」
 半分言い当てられたような気がして肝が冷える。
 どうしてだろうか。私の心はどうしようもなく鏡の先に映るこの人に向いているのに、同時にそれを拒むように遠ざけている自分がいる。予防線を張るという意味では、そもそも会わないことこそが一番の対処法のはずなのに。ここには矛盾しかない。
「……俺のこと遠ざけないで?」
 それが出来ない私の甘さが、結局自分を殺してしまった。





「どうしてここにって、そう思ってる?」
 口調こそ穏やかに聞こえるけれど、逆にそれが恐ろしい。一度開けてしまったドアはもう閉じることが出来ず、しっかりとリョータが左足を踏み入れて、そしてしっかりとドアをホールドしている。
「あの写真見れば大体見当くらいついちゃうよ?」
「…………」
 その静かなる怒りを含んだ言葉に私は何も言えず、ただドアの前にぼうっと立ち尽くしているだけだ。どうしていいか分からない時、人はとても無防備になるらしい。
 丸められた紙の束を握りしめているリョータになんと声をかけるのが正解なんだろうか。手元に握りしめられたそれを見てきっとここに来ているに違いない。どうしてそこまでして私を追いかけ、そして固執するのだろうか。
「俺が来て欲しいって言っても俺の部屋には来なかったのに、三井さんの部屋には行って自分の部屋にもあげちゃうんだ?」
「……それは、」
 何も間違ってはいないリョータのその言葉が突き刺さるように痛い。ある意味で正論すぎて、そして私にそれを否定するだけの理由も根拠もない。
 自らリョータと距離を置いた私に、リョータにかける相応しい言葉などきっと存在しないだろう。何と言ったところで正解でもなければ、リョータの気持ちが収まる訳でもないだろうから。
「あの時、信じていいって言ったじゃん………」
 ごめんなさいと謝るのもなんだか違うような気がして、やっぱり言葉が口から出てこない。失語症に陥ったのかと錯覚するほどに、声にしようとしても上手く言葉が乗らない。
「俺をどうにかさせたいの?」
「……え?」
「このままだと俺ちゃんのことも三井さんのこともどうにかしちゃいそうで自分でも怖い。ほんとに、怖いんだよ……」
 三井さんのことが脳裏を過ぎって、ようやく冷静になる。
 このままではいけない。私がリョータへの想いを断ちきれなかったが故に、全てが悪に変わってしまう。それは私だけのことじゃない。リョータと三井さんの関係だったり、彼らのバスケ人生にも少なからず遺恨を残してしまう。
「ち、ちがう…!三井さんは関係ないから!」
「どこがだよ?関係しかないだろ……」
「ほんとに三井さんとは何もないから……」
 リョータの肩に両手を翳して必死になっている私に、一度リョータも狼狽えたように私のかんばせを確認しているようだった。これ以上の最悪なんてあってはいけない。
「……もう何が本当で嘘かわかんない。」
 自分の意志が弱いばかりに私はリョータまで知らぬ間に傷つけ、そして裏切っていたのだと改めて思い知らされる。
 何を言ったところでもう信じてもらえなければ、その資格すら私にはないのかもしれない。もうこう伝える他に、信じてもらえる道はないとそう思った時には口から言葉が溢れていた。
「リョータと距離を置きたくて三井さんにお願いしたの。だから三井さんとは付き合ってないし、何もない。」
 リョータと再会してから今に至るまでの半年間、ずっと内に秘めて決して言えなかったその言葉をいともあっさり私の口が紡いでいく。
「なんで俺と距離置きたいんだよ?」
「それは、」
「そんなに俺が嫌いなの?」
 今までそれを言わなかったのは、言えなかったのは何故なのか。勝手に自分の気持ちに気付いて、そして勝手に塞ぎ込んで距離を置こうとしたその行為が不思議に思えて仕方がない。
 どうして簡単ですぐに伝わるその言葉を言えなかったのか。
「逆だよ、リョータ。」





 自分の気持ちを自覚し始めたのは高校二年の時だった。
 クラスメイトになった最初の春、俺の隣に座っていたのが彼女だった。授業で何度かペアを組んで作業をしたりする中で、とても話しやすい雰囲気のある子だと思った。温度感がちょうど良かったのかもしれない。
 入学してすぐに好きな人が出来た俺にとって、それはずっと揺るがないものだったし、揺るぐはずもないと思っていた。他の人に同じような感情を抱くことはきっとないんだと勝手に決めつけていたのかもしれない。
「あのスリー決めてた人、かっこよかったなあ。」
 試合が終わったあと、翔陽戦を見に来ていた彼女の会話が耳に入った。
 そこまで意識をした言葉じゃないのは多分分かってた。ただの感想に近いようなその言葉がなんだか少しだけ引っかかる。きっかけは、それくらいのものだった。
 そこからその言葉を思い返すことが増えた。
 教室で楽しげに話している彼女の顔を無意識に見ていると、俺の視線に気づいたのか一度首を傾げながらも少しはにかみながら小振りに手を振ってくる。視線に気づかれた恥ずかしさもあって、そっけなく右手を上げて机に突っ伏して寝ることにした。
 俺には好きなひとがいる。
 それはずっと変わらずあの子で、彼女じゃない。そう言い聞かせる為に。言い聞かせている時点で、もう既に自分が彼女のことを意識していると認めているのは気づかないふりをした。
 高校三年になって彼女とはクラスが離れた。あのモヤモヤとした感情も、一緒のクラスで近い環境にいたからだ。きっと一時的なものだと、そう思っていた。そう、思いたかったのかもしれない。
 それは驚くほどに真逆でしかなくて、離れた分だけ彼女を考える時間が増えた。
 教室から一歩外を出た時、廊下で、購買で、移動教室で、全校集会の体育館で──気づいた時には目で彼女を探している自分に気が付いた。
 その感情が何なのか、その時にはっきり認識したのかもしれない。ただの感想と自分に言い聞かせても、あの試合の時の彼女の言葉がずっと引っかかっていた。
 卒業と同時にアメリカに渡り数年、ようやく俺は日本に帰ってきた。
 移籍の話がまとまった段階で帰国して、ちょうどオフシーズン中ということもあってちょっとした暇を持て余していた時だった。
 彼女は今どこで何をしているんだろうか。
 日本に帰ることが決まった時、そんなことを考えていた。どうすれば彼女に会えるだろうかとも考えて、その手段がなにもないと行き着いていたちょうどそんな頃。たまたま通りがかった繁華街で、彼女の姿を見つけた。
 何人かの集団で入っていた先は雰囲気のいい飲み屋で、釣られるように後を付けた。時々遠くから聞こえてくるその懐かしい声を聞きながら、彼女が時折ここに来ているという情報を得ることが出来た。
 これでもう一度彼女と再会するきっかけは出来上がった。
 人生でこれだけ計画を立てて動いたのは初めてかもしれない。






「リョータといると苦しくなるから。」
 今以上のものを望んでしまう自分がいて、それがどうしようもなく苦しかったこと。一緒にいる時にこれでもかというほどに満たしてくれたリョータにそれ以上を望めなかったこと。ただ単純に、拒絶されたらどうしようという気持ち。
 そうなった時、立ち直る術を思いつかなかった。どれだけ想像しても上手くいくイメージは想像できなくて、よくない方向に進むことばかり考えてしまうから。
「リョータの特別になりたかった。だから苦しくて……、離れる理由を作った。」
 望んでも仕方のないことを望んでしまった。
 そこからは自分の感情と逆行して、いかにして自分の本心を出さないかそのことに努めた。言い聞かせないと、その場で感情が溢れ出しておかしくなりそうだったから。
「ちょ、ちょっと待って!」
 酷く狼狽えたリョータのかんばせからは先ほどの怒気は薙ぎ払われていて、久しく見ていないそんな表情だ。再会してからのリョータはとても落ち着いていて、そして大人だったから。
ちゃん、俺の話聞いてくれる?」
 いつかそんな日が来ると思っていた。再会してから一度もリョータの口から語られていないあの子の名前。
 言葉にしてくれた方がきっと楽だった。ちゃんとリョータの中にいるのが誰なのかを知ってしまえば色々と整理がつく。だからいつかそんな日が来ると思っていた。自分の心の重荷が降りるそんな日、リョータとの決別の日。
 そう思っていたのに実際にそれをリアルに感じると感情がぶれる。一度自らリョータの元を去っておいて、それでもまだ私には覚悟が足りないのだろうか。
 頬に伝うそれを見たリョータは、私の返事を聞くことなく話を急ぐように口を開いた。
「俺ちゃんが好きだよ。」
 ずっと待ち望んでいたその言葉を、まさかこのタイミングで聞くとは思わなかった。
 もし本当にそう思っているのならもっとタイミングはあった筈だ。このタイミングである必要はない。もしそれが関係を継続するための布石だとしたら?
「……信じてないでしょ?」
「うん。」
「ひでぇ……」
 その言葉を待ち望みながらも、きっとそんな事はあり得ないともどこかで思っていたから。
「ずっと好きだったよ……、高校ん時からずっと。」
 私の中の常識をひっくり返すには、その一言で事足りる。それくらいインパクトがあって、そして純粋に受け取ることができない自分がいた。
 待ち望んでいたはずのその言葉は、私を混乱へと導く。



5.レグルスへの子守唄