1号室.
カーテンの向こう側


 きっと結構酔っていたんだと思う。
 そうでなければこの行動は奇行というかなりまずい状態でしかない。とっても良い気分にふわふわしていた筈だけど、今とても冷静で寧ろ冷や汗をかいているくらいだ。人間どれだけ酔っても冷静になる時の記憶ははっきりとしているらしい。
 時を、戻そう。
 私は大学のサークルの飲み会に参加して、随分と機嫌よく帰っていたはずだった。ほぼ終電に近い電車で帰ってきて、腕時計は午前一時すぎを指している。コンビニで何本か酎ハイを買い足して袋を下げて帰った古いアパート。
 鞄のポケットから鍵を取り出して何の疑いもなく鍵穴へと差し込む。
 刺さったは良いが、何故かそこから先に進まない。通常であれば右に回せばドアは開く筈なのに、まるで回らない。サビでもついたんだろうか?力が足りないのかもしれない。全力を鍵穴に集中してみる……開かない。
 コンビニの袋を地面に置いて、行儀が悪いと分かりながらも片足を添えて鍵を差し込んで引っ張ってみる。まるで開く気配のないドアに痺れを切らせていると、私が力を緩めた瞬間に何故だかドアが開いた……私が触っていないのに?
「誰……こわ、あの……部屋間違えてません?」
 同じくらいの大学生だろうか。深夜一時すぎ、男の子がドアから出てきた。
 私が部屋を間違えたという意識はまるでなくて、私の部屋に知らない人がいるという思考になって私もあたふたし始める。向こうも相当あたふたしている。
「こ、こ、ここ私の部屋です…!」
「……いや、俺の部屋だから。」
「ど、泥棒?」
「それはこっちの科白だと思う……」
 私が泥棒扱いした彼は少し冷静な表情をして、左斜め上にある部屋番号を見るように促している。何を言ってる?と不審な気持ちを取っ払う事なく見上げた先には、普段住所を書く時とは違う部屋番号が印字されているではないか。
 一◯三?一◯四じゃなくて?
「……なんか言う事ある?」
「あ、あ、あの、」
「なに?」
「お詫びにこのお酒飲みますか?」
「……は?」
 こんな状態に冷静ではいられないし、忘れてたけど多分私は酔っ払っている。そうじゃなきゃこんな意味の分からない提案は出てこないだろう。どんなお詫びかと自分でも思うし、そもそも人の家に上がり込む気なんだろうか?私が一番分かっていない。
「…お酒嫌いでしたか?」
「いや、そうじゃないでしょ……ツッコミどころ多すぎる。」
 そう言いながらも何故か彼は私のコンビニの袋を受け取ってくれて、そして私も何故か自分の家ととても似ている玄関に入って靴を脱いでいる。これから全く知らない人と、一体何を喋ろうか。
 多分私も彼もその答えを知らないし、準備もない。
「レモンとグレープフルーツどっちが好きですか?」
「……グレープフルーツかな。」
「私と一緒だ!」
「……それじゃ駄目だろ。」
 酔っ払いの私と違って冷静な彼は、完全に不審者でしかない私を部屋へと上げてそんなことを冷静に呟く。隣の部屋はこんな風になっているのかと、そう思う。全く同じ間取りなのに全く違う部屋に来たような気分だ……本当に違う部屋に来たのだけど。
「あの、」
「ん?」
「この度は誠に申し訳ございません……」
「うん。」
 確実に寝ていたであろう彼はふあ〜と一度あくびをして、私の袋の中身を開けた。さっきグレープフルーツと言ったのに、彼が手に取ったのはレモンサワーだった。何だか気の使える人なのかもしれない。
って言います……」
「うん、ポストの表札見てたから苗字は知ってた。」
「そ、そうなんだ…?」
「宮城リョータ。」
 少しだけ珍しい名前なのかもしれない。どこの出身なんだろうか。聞けば良いのに、何故か気を張ったままグレープフルーツサワーのプルタブを開く。視線は彼を見たまま、ごくりとその液体を喉奥へと流し込んでいく。
「女の子が住んでるの知ってたけど………」
「けど?」
「こんな飲兵衛だとは思わなかった。」
「宮城くんはお酒嫌いですか?」
「ううん、好きだよ。常識の範囲内で、だけど。」
 乾杯なんてまるで忘れていた私に、彼はコツンと自分のレモンサワーをぶつけてからぐびぐびと音を立てて喉へと流し込んでいく。少し愛想のない人だと思っていたけど、普通に良い人なのかもしれない。
 こんな深夜に部屋を間違えた上に泥棒呼ばわりをされているのに、そんな酔っ払いを自分の部屋にあげて丁寧に乾杯までしてくれているのだから良い人なのはほぼ確定している。
「こんな遅い時間まで飲み歩いてると危ないよ?」
「……サークルの飲み会でてたらこんな時間で。」
「大学生なんだ?」
「うん、宮城くんは?」
「俺も。」
 少しだけお互いの話をしていればすっかり時計は二時を指している。グレープフルーツサワーを手に持つともう残量が少なくなっていて、最後のひと押しをするように垂直にしてから飲み干した。
「お騒がせしました。」
「ハイ、おやすみ。」
「おやすみなさい。」
 変な気分だ。自分の部屋と同じ間取りの家を出て、一◯四と書かれた隣の自分の部屋に帰っていく。酔っ払いの私のことを信用していないのか、ただのお人好しなのか、隣のドアからひょっこり姿を見せている彼を見ながら自宅の鍵を差し込んだ。
「ちゃんと鍵閉めて寝なよ?」
 今度は簡単に鍵がガチャリと回って、そして開いた。
 お隣さんを初めて知った日だった。





 昨日はなかなか寝付くことができなかった。
 いつも目を閉じればすぐに夢の世界へと旅立てる私が、だ。築年数が古く、言葉を選ばずに言えばオンボロなこのアパートは壁の作りも非常に薄い。今までも隣から生活音が聞こえてくることはあったけれど、顔も知らない相手なので特に気にも留めなかった。
 けれどもうそれは“知っているひと”でしかない。つい耳を澄ませて壁の向こう側を想像してしまう。聞こえたからどうという訳でもないのだけど、何だか妙にドキドキする。
 暫く彼はテレビをつけていたようで、午前三時前になってその音が消えた。私はというとすっかり酔いの覚めてしまった自分を誤魔化すように、自宅の冷蔵庫からグレープフルーツサワーを取り出してプルタブに手をかけた。
 終電で帰ってきたはずなのに、眠りに落ちる少し前にチュンチュンと小鳥の囀りが聞こえてきた時にはとても絶望的な気分になった。明日も明後日も明明後日も……恐らく彼は私の隣の部屋に住んでいるだろうから。

 洗濯カゴに溜まった三日分の洗濯物をかついで、玄関に出る。今時あまり見かけない、共用通路の各部屋毎に洗濯機が設置されているタイプだ。悲しい程にオンボロ感が出ているが家賃が安いので背に腹は変えられない。物は考えよう、レトロ感の溢れるアパートだ。
「あ、」
「……あッ、」
 玄関を出るとそこにはパンツを一枚ずつ手に取り洗濯機へ投げ入れている宮城くんの姿があった。なんとなく声が漏れて、向こうもそれに気づいたように声を上げた。昨日のこともあるのでちょっと気まずい。
「お、おはようございます……」
「……おはよ。」
 私も自分の洗濯機を開いてカゴの中身を大雑把に入れていく。この微妙な空間、どうやって話を繋げようか。頭の中をぐるぐるといろんな事が駆け巡っているのに、有効そうな手立ては何一つ思いつかない。自分がポンコツすぎて悲しくなる。
「昨日はよく寝れた?」
「う〜ん……どうだったかな。」
「三時くらいにプシュって音聞こえたんだけど?」
「………」
 宮城くんの生活音が私に聞こえるという事が、何を意味しているのか今のいままで気づかなかった私はあまりにも愚かだ。それは同時に自分の生活音も彼には筒抜けになっているという事なのだから。
「お酒はほどほどにね?」
 どうしようもなく恥ずかしい。これから部屋で身動きが取れなくなりそうだ。まさか寝れずに開けた酎ハイの音まで伝わっているとは……もう部屋で迂闊に鼻歌も歌えやしないじゃないか。先週の金曜日音楽番組を見ながら気持ちよく歌っていた事は今すぐに記憶から抹消することにする。
「……あ、」
「ん?」
「ああ、うん……なんでもない。」
「もしかして洗剤切れた?」
 彼が開いた箱はほとんど空っぽに近い状態で、とんとんと何度か叩いてようやく粉が散るくらいの残量だ。多分新しい洗剤を買い置きしていなかったんだろう。なんとかその残量で戦おうとしているようだ。
「よかったらこれ使って?」
「……いいって、普通に悪いし。」
「私昨日もっと悪いことしてるんで!寧ろ相殺させてほしい。」
「……相殺って、洗剤で?」
「つ、追加分は追って納品いたしますので……」
「じゃ、遠慮なく。」
 そんなもので相殺するなよというツッコミが入りそうな場面ではあるけれど、宮城くんは少しだけ考えてから遠慮がちに私の差し出した洗剤を手に取った。蓋をとって、少し匂いを嗅ぐと少量だけ洗濯機に垂らして私に突き返してきた。
 遠慮しかしていない量だ。
「それじゃちゃんと洗濯できないよ?」
「だって悪いじゃん……」
「悪くない!もっとこう…ジャバジャバっと!」
「うぉ?」
 彼の制止を振り切って勢いをつけて飛んでいった液体洗剤は本当にジャバジャバと音を立てて注がれている。ジャバジャバくらいの音では済まないかもしれない。ジャバジャバジャバジャバくらい言っていたかもしれない。
「……これちゃんと洗剤落ちんの?」
「どうかな…分かんないけどきっと大丈夫だよ。」
「ほんとに?」
「へへ……」
「おい。」
 洗濯が終わるまでの四十五分、宮城くんと他愛もない話しをした。土曜日の昼前の出来事だ。ガッコンガッコンと大層な音を立てて回る洗濯機の音にも負けず、あっとういう間に終了の合図が耳に劈いた。
 お隣さんは、どこか心地のいいひとだった。  



2号室.
氷砂糖と青い梅