2号室.
氷砂糖と青い梅


 お隣さんとはここ最近よく話す。
 お隣さんなんて言ってしまうと少し距離のありそうな関係だけど、実際そうでもない。こうしてよく話すくらいには打ち解けた関係になっていた。どちらともなく外から洗濯機を回す音が聞こえてくると部屋の中から出てきて、そしてその四十五分を一緒に過ごす。そんな関係。
「アヤちゃんさんだっけ?宮城くんの好きな子。」
「ちゃんとさんを同居させんなって、アヤちゃんね。」
 洗濯は日常的に行う事なので、自然と宮城くんと一緒にいる時間が増えた。彼の好きな人の名前を知っているくらいには心を許してもらっているという事だ。深夜一時過ぎ自宅に不法侵入しようとした私なのに……心が海の如く広い。
「なんで好きになったの?」
「なんでって………」
「普通に気になるじゃん、絶世の美女とか?」
「う〜ん、まあ普通に美女、超美女。」
「そうなんだ、うらやまし〜。」
 話しを聞けば高校入学時からずっと惚れているんだとか。右手の指を折りながら数えてみたけど片手じゃ足りなかった。それだけ長く片思いを継続できるなんて、よっぽどの美女なんだろう。そして、見た目だけじゃない宮城くんを魅了させる魅力をたくさん持った女性に違いない。
「そっちはどうなの?」
「わたし?」
「サークルの先輩のこと好きなんでしょ?」
「あ〜うん、そんな話もしたね?」
 いつだか酔っ払った時に勢いでそんな話しをしていたのを思い出す。私自身も十分彼に心を許しているらしい。友人に対しても色恋沙汰の話しをあまりしてこなかったので、何だか改まって聞くと少しくすぐったい。
「新歓の時に優しかったとか、案外そんなん?」
「なにそれチョロすぎじゃん。」
「ほんとだよね、自分でもそう思う。」
 今にして思うと、昔から好きになるきっかけは大体そんなところだったのかもしれない。そんなきっかけを縋ってずっと視線の中に捉えているけれど、実際本当に好きなのかと問われたらそれは微妙な所だ。そんな自覚は、自分の中にも確かに存在している。
「手に入らないって分かってるからなのかも。」
「え?」
「そしたら嫌いになられる事もないでしょ?」
「へえ?」
「いや、普通に変か、いや変だね多分。」
「変っつうか……それってなんか寂しくない?だって普通に考えて振り向いて欲しいじゃん。」
 それが人の心理だと、私もそう思う。彼の言葉は正しい。結局私はただの臆病なんだろう。手に入れた瞬間から終わりが始まる、そういう考え方しかできないのだから。ならばいっそ手に入らなければ終わることもない。終わりは一生始まらない。
「俺はアヤちゃんに振り向いて欲しいもん。」
「片思いは続くよどこまでも?」
「随分辛辣な事言ってくれるじゃん?」
「スパイスあった方が美味しいじゃん?」
「カレー限定な、それ。」
 新入生歓迎会で優しくしてくれたその先輩には彼女がいて、もちろん私の入る隙なんて微塵もない。そもそもの話しをすれば、ただほんのりと漂うくらいの淡い恋心を抱いていただけで告白はおろか何かしらのアクションを起こした訳でもない。当然なにも始まらない。
さんもさ、」
「ん?」
「いつかそう思えるようになるといいね。」
 私のこんなに擦れている恋愛観にも、彼はやっぱり海のように広い心で受け止めてくれる。言っている本人にそんな自覚はまるでないのだろうけれど。無意識でできるのだから、本当に心の優しい人なんだろうと思う。
「今んとこはおそろいだな?」
「おそろい?」
「絶賛片思い中なとこ。」
「悲しいおそろいだなあ。」
「そっか?同志って心強いじゃん。」
「……同志か。」
 宮城くんは時々とてもポジティブな言葉をぽろりと溢す。ネガティブ思考の強い私にはない発想の言葉で驚かされる。物は考えようと言うけれど、本当にそんな彼の言葉で少しだけ気持ちが軽くなるから不思議なものだ。
「じゃあ一緒にスパイス摂取する?」
「どんな誘い?」
「カレー作るから一緒に食べよって提案。」
「スパイス捻りすぎっしょ…食べるけど!」
 こんな本当になんてことのない話しをして、あっという間に四十五分が経つ。ピーッピーッピーッと三度甲高い音が鳴り響くと、いつも私が先に洗濯物を取り出す。彼の洗濯機は私のものよりも旧型なのか五分長く回る。
 少し水気を含んで重たくなった衣類を奥底から取り出して、再び洗濯カゴに入れていく作業をし終える頃には宮城くんの洗濯機も甲高い音で終了の合図を鳴らせている。そんな私たちの日常。
さんこれ落とし…た、……」
 ん?と振り返ると、そこには私の下着を手に持っている宮城くんの姿がある。しかもよりによって寝る時用にしている黒いスポーツブラを手に持って。
「……えっと、寝る時用でして?」
「……別に用途は聞いてないけど。」
「そ、そうだよね…ごめん…」
 そっと握られたその恥ずかしさしかない布を奪い去って、「カレーできたら呼びに行くね」とだけ言い残すようにして部屋へと逃げ込んだ。見られるならせめてもう少し勝負できるくらいのものにしておけばよかったか……いやそれはそれでまずい。
 そもそも彼は大学でもバスケ部に入っているスポーツマンだからスポーティーなのも大丈夫だろうか?冷静に考えてスポーツマンと下着の好みは比例しない。自分でも動揺しているのが分かってとても気まずい。
 玄関のドアを一枚隔てた所には彼がいて、彼が部屋の中へと入っても薄い壁が一枚隔てているだけなので表現し難い感情に陥る。こういう時は無心になるのが一番手っ取り早いので、冷蔵庫から野菜を取り出してトントントントンと叩きつけるように刻んで、そしてカレーを作ることにした。
 人生には時にスパイスが必要という事らしい。





 バイトを終わらせてアパートへと戻る。昭和レトロな銀色をしたポストの中身を少し背伸びをして覗いみる。大概ろくなものは入っていなくて、とてもピラピラした薄っぺらいチラシが数枚入っているだけだったので見なかった事にして部屋へと入る。
 数日降り続いた雨も上がって、近所迷惑かもと思いながらも八時頃から洗濯機を回した。
 こんな時間だ。流石に一◯三号室の扉は開かない。
 待っている訳でも、約束をしている訳でもないのに習慣というものは不思議だ。隣の扉から宮城くんが出てくるような気がして、時々チラチラと視線がそちらへと泳いでいた。
 十分ほど洗濯機に腰掛けて外の景色を眺めて、そして何事もなかったように部屋へと戻った。テレビをつけて、そして適当に冷蔵庫に入っているご飯を摘みながら食べる。テレビからは音楽番組が流れているけれど、あの日以来私は歌ってはいない。
 玄関先でゴウンゴウンと音を立てて回っている洗濯機が今日はとても長く感じられた。テレビが面白くないからなのかもしれない。
 ようやく甲高い音で終了を知らせた洗濯機へと向かって、洗濯カゴに中身を取り出していく。新しく買った柔軟剤はとても甘くて、そして優しい匂いがした。
 ベランダの網戸を横に引いて、物干し竿に掛かっているハンガーとクリップに洗濯物をかけていく。雨の日が続いた事で随分と増えている洗濯物を休み休み干していると、隣からカラカラと網戸を引く音が聞こえてきた。
「……さんいるの?」
「あ、うん。洗濯物干してぼけっとしてた。」
「洗濯機回ってんなって思ってた。」
「ごめん、うるさかったよね?」
「ううん、窓開けてたら甘い匂いしてきたから釣られた。」
 匂いに釣られて出てきた宮城くんを想像すると何だか少しだけ拍子が抜けて、思わず笑ってしまった。彼の顔は見えていないけど、きっと不服そうに少し口を尖らせているのがなんとなく想像できてしまって、余計と笑ってしまう。
「いい匂いでしょ?新しく発売されたやつ。」
「なんか女子ってカンジ。」
「だって女子だもん。」
「酒量は女子の規格外だけどな。」
「意地悪い言い方するよね、たまに。」
 彼のその言葉に私は急に閃いたようにベランダの手すりに手をかけて、ひょいと体を柵の上から乗り出させる。覗いた先にはベランダのヘリに腰をかけて完全に気を抜いていた宮城くんの姿があった。
「わっ、なに?危ねえじゃん……」
「平気だよ、今日はシラフだし。」
「……へえ?珍しい。」
 お風呂上がりと思われる宮城くんの髪の毛はしんなりと降りていて、その姿は初めて会った日(結果的に不法侵入をしようとした日)以来で何だか少しだけ違和感を感じる。普段しっかりとセットされている彼の姿とは、随分と印象が違う。
「宮城くんって梅酒好き?」
「は?なにまた突然……」
「実家から青梅たくさん送られてきたんだ。」
 昨日の晩に実家から宅急便で届いた箱の中には沢山の野菜と、青い梅が入っていた。昔母親が大きな瓶に青梅を敷き詰めて氷砂糖につけていたのを思い出す。それは約十ヶ月という少し長い時間を経てとろみと旨みを増すものらしい。
「昨日氷砂糖買って作ったんだけど量が多いから。」
「……で?話見えてこないけど。」
「宮城くんにもお裾分け。一緒に育てて十ヶ月後に飲も?」
 慌てる必要もないのに、少し駆け足で台所の床下収納に仕舞い込んでいた二本ある瓶を持ち出して、もう一度勢いをつけて柵に登って体を突き出した。
「だから危ないって!」
「これあげる。」
 ベランダの非常扉越しまでサンダルを履いた宮城くんが近づいてきて、重たいその瓶を手渡した。隣に住んでいるのだから玄関から礼儀正しく渡せばいいのだろうけれど、こんなやりとりが何だか童心に帰ったような気持ちにさせるのかもしれない。
「十ヶ月後が楽しみだなあ。」
「そこまで待てんの?」
「待てば待つほど美味しそうじゃん。」
「そっち?」
 瓶の中に入った青梅はまだまだ青く、そして硬いまま氷のような砂糖を背負っている。十ヶ月後、どうなっているのか楽しみな気持ちは私の心からの感想だ。それが共有できる相手がいるのは、もっと楽しい。
「じゃあ俺からもさんに渡しとくよ。」
「へ?」
 非常扉越しにピラりと差し出されたのは、黒い布。一体なにをプレゼントしてくれるのだろうかと見ていれば、いつだか一枚くらいは持っておこうと履かずじまいで箪笥の奥底に眠っていた透け感の強い私のパンツとそれは非常に似ていた。
 まさか彼がこんなものを私にプレゼントしてくる筈はないし、ついさっき思い出したように箪笥から引っ張り出して洗濯機にかけてばかりなので多分私の思い違いではないだろう。
「……さっきポスト見に行ったら落ちてた。」
 言葉は失われるものらしい。何も出てこない。
「こういうの持ってるんださん……」
「三百六十五日スポーツブラの女と思ってた?」
「そうじゃないけど……普通に返事に困るやつ。」
「それはそうですね本当に……」
 柵から飛び出していた体は都合よく引っ込めて、非常扉越しに布を受け取った。今日のところはベランダ越しでの会話がベストだったのかもしれない。しかしどうしてこうもうっかり下着ばかり足跡をつけるように落としていくのだろうか。とても情けない。
「あのさ……次からは気をつけてよ。」
「えっと…はい。」
「このアパート女の子さんだけなんだから。」
 言われて初めて認識したその事実に、体に熱が走ったように熱くなった。今日は熱帯夜なのかもしれない。「おやすみ」会話を終わらせるようにそう言って、勢いよく網戸を閉じた。
 梅酒はまだ、完成しない。  



3号室.
願いはまだ、叶わず