↓ ↓ 3号室. 願いはまだ、叶わず ここ最近はとても時間の流れが早かった。 楽しい時ほど時間が過ぎるのが早いなんてよく聞くけれど、実際のところはどうなんだろうか。科学的な証明と体感とは必ずしも一致する訳ではないのかもしれない。お隣さんと知り合ってから早いもので十ヶ月が経とうとしている。 知り合って数ヶ月が経った頃に渡した梅酒は、暗く光を通さない床下収納でじっくりと完成のその時を待ち侘びているのだろうか。 宮城くんは先週の金曜日から部活で遠征に出かけると家を留守にしている。いつも日常の生活音と混ざりながら聞こえてくる隣からの音はなくて、とても静かな週末だ。 ここ最近毎日のようにしていた洗濯も日曜日の夕方に数日溜めてから回した。静かな週末は酷く退屈だ。高校を卒業してから家を出て早数年、一人暮らしと一人には慣れているつもりだった。 学校に行けばサークルに顔を出して、安いオンボロアパート代を支払えるだけの最低限のバイトをして、そして一人でテレビを見ながら手を叩いて笑ったり、流行りの曲が流れるたびに文字を追って歌ったり。そんな一人の生活が好きな筈だった。 少し前まで当然のように存在していたそんな生活が、今は何処にも見当たらない。 引っ越しをした訳でも、生活のルーティンを変えた訳でもないのに、それは見当たらない。その日常の全てにおいて、それを笑って、時に呆れながら聞いてくれる宮城くんが息をするように存在している日常に変わったからなのだろうか。 彼の心が海のように広く、そしてとても優しいからか、私は少しわがままになったのかもしれない。 突っかけサンダルに足を通して、洗濯機のボタンを押すとあとは暇を持て余すだけだ。サンダルをカコンッカコンッと地面に擦らせていると、少し向こうの部屋から人が出てきて咄嗟に足を止めて頭を下げた。 手持ち無沙汰になって部屋に戻って、結局何もしないどころか洗濯物を取り出して干す作業すら忘れて一日が終わった。 日曜日には帰ってくると言っていたが、今日は帰ってこないのだろうか。 ガチャンと隣の扉が開く音がしたのは随分と遅い時間だった。ベッドにごろりと転がっていた私は一度その音に目を覚まして、そしてもう一度布団をかぶってそのまま音を遮断するように眠りについた。 大学の授業を終わらせて歩いているとサークルの友人と出会した。久しぶり、と想像もしていないそんな言葉をかけられて少しだけ考える。その言葉は久しく会っていない人間に言うべき言葉な筈だが、それは私に向けられている言葉なんだろうか。 「久しぶり、かな?」 「なに言ってんの?最近全然サークルに顔出さないじゃん。」 「……そうだっけ。」 「飲み会にだって来てないでしょ?」 言われてみれば本当にそうかもしれない。月に一度は開催される飲み会にはいつも顔を出していたし、授業の空き時間には当然のようにサークルに顔を出していた筈だった。いつの間にか自分のルーティンから外れていた過去の行動を今になって気づくくらいには日常が一変している。 「先輩達も最近見ないなって言ってたよ?」 「ふうん。」 そうなんだ。そう思うだけで、特別その言葉に揺れ動くものは何もなかった。それよりも何故かこの場を早く立ち去ろうとしている自分がいて、その不思議な行動にとてもしっくりこない違和感を感じた。 「たまにはご飯でも行こうよ。」 「あ、うん。今日バイトだからまた今度行こ?」 早々に自分から話を切り上げて、次の言葉を受け入れる事なく大袈裟に手を振って駆け足でその場を去ってしまった。バイトは次の木曜日まで入っていないのに。用事もないのに家路へと急ぐ、そんな矛盾しかない展開に私も中々に理解が追いついていない。 心拍が五月蝿いのは多分、久しぶりに走ったからだ。 急いで帰ってきた我が家で鞄を下ろしてベッドに転がって感じたのは途方もない虚無感と、そしてどうしようもない退屈だ。 普段夜遅くまで部活に明け暮れている彼はきっと居ないのだろうとそう思ってテレビのリモコンを手に取った時、コホコホと息苦しそうな咳払いが聞こえた。どうやら在宅しているらしい。思わずリモコンをベッドに置いて、少しだけ聞き耳を立てるようにその生活音を吸い込んだ。 静岡方面へと合宿に行くと言って金曜日見送った彼の背中をもう三日は見ていない。土産を買ってきてくれると言っていたけれど、いつそれは私の手元に届くのだろうか。とても薄い壁を一枚隔てているだけなのに、何だかとても遠いような気がした。 合宿は複数の学校と合同で行われたらしく、そして久しぶりに彼女もいると彼は意気込んでいたけれど、何か進展があったのだろうか。あれだけ長く片思いをしていたのだから、なにかしらの結論が出ていてもおかしくはないのかもしれない。 釈然としない、このそわそわしている感情に要領を得ず、私はやっぱり壁の向こうの音を探すことをやめられないでいる。 とてもシンと静かなのに、時々コホコホと聞こえてくるその音があまりにも気になってベッドから起き上がる。首元の依れているシャツから少しばかりはマシな上着に着替えてサンダルに足を通す。ガチャンとドアを開いて、一◯三号室を前にすると大きく深呼吸をして、そして年季の入ったボタンを押し込んだ。 足音が近づいてくる気配もなければ、久しぶりに聞きたい彼の声も聞こえない。 数ヶ月ぶりに会ったサークルの友人に対しては然程も久しぶりと思わなかったのに、宮城くんの声は三日聞かないだけでとても久しぶりのように感じられる。 「……宮城くん?」 コンコンと薄い扉にノックをして彼の名前を呼んでも返事はなくて、いつかのように私は勝手にノブに手をかける──、ガチャン。 自ら開けておいて、まさか開くとは思っていなくてどうしようか少し迷いながら扉を開く。鍵を開けっぱなしにするなんて、そんな私のようなドジを彼が踏むだろうかと疑問に思いながら。 「ちょ、ちょっと!」 久しぶりに入った彼の部屋に宮城くんの姿はしっかり存在していて、そしてベッドへともたれ掛かるようにして項垂れている。それはほとんど倒れているような、そんな体制だ。 「……ん?」 「宮城くん大丈夫?」 見るからに上気しているかんばせと、私と合わないその視線に手を伸ばすと想像していた以上に籠った熱が伝わってきて、先ほど壁越しに聞こえてきた咳払いに全てが糸を繋いだように合致した。 「具合悪いなら言ってよ……」 「……ん、あ〜うん。」 大丈夫じゃないことなんて容易に分かるのに、どうして大丈夫かと聞いてしまうんだろうか。視線も絡むことがなければ、会話も噛み合わないのだから大丈夫な訳がない。ないよりかはマシだろうかと、自分の家に鎮痛剤が残っていた事を思い出して立ち上がると引っ張られるような感覚が私の歩みを止めた。 「……置いてかないで。」 それだけ言うと彼はふっと目を閉じるように、顔を埋めるようにしてベッドにうなだれかかってしまった。 その言葉が瞬間的に生み出したのはちょっとした優越感で、そしてすぐにそれは私に当てた言葉ではないような気がして急に体に鉛がついたような重みを感じた。それはきっと、私ではなく他の誰か──、あの黒髪のセクシーな美女に、彼の想いびとに向けられた言葉なんじゃないだろうかと。 自分の中で終わりが始まったような、そんな確信が走っていた。 木曜日のバイトを終わらせて帰宅する。 いつも本当に碌なものが入っていない昭和レトロ感漂う銀色のポストを覗き込むと、白やら黄色やら色のついたチラシと、仰々しい封筒に入った手紙が目に入って久しぶりに鍵を回して中身を受領する。 集合ポストから数歩歩みを進めると辿り着く自宅までの間にその封を開いて、そして中身を確認する。差出人は不動産の管理会社からだ。立ち止まって仰々しい文章を読んでいくと、想像していない少し先の未来─事実─が書かれている。 驚きながらも、色んな事を考えるとそれも仕方がないかと妙に落ち着いてその事実を受け入れている自分がいた。そして、それはタイミングとしてはちょうど良かったのかもしれない。 そう言えばここ最近、洗濯物が溜まっている。 扉をガチャンと開けて閉じてしばらくすると、大した時間差もなくコンコンとノック音が聞こえた。そんな訪問をするのは私の知る限り一人だけだ。夜遅くにチャイム音が鳴ると吃驚するだろうからと、そんな気遣いを言葉にしてくれた彼に違いがないので、確認する事なくそのまま扉を開いた。 「……確認しないで開けたでしょ?」 「うん、宮城くんって分かってたから。」 「不用心すぎだろ。」 「そう?」 「男をそんな簡単にあげちゃダメ。」 「だって宮城くんだもん、安心安全セコム。」 「セコムにすんなって!」 自分でも想像している以上に普通の会話が出来たことにどこかほっとしていたのかもしれない。きっと大丈夫、いつもの私と宮城くんのやりとりと何の遜色もない日常だ。 「バイト?遅かったね。」 「うん、珍しく忙しくてさ。百年に一回くらいの。」 「随分長生きなんだね、さん。」 何を口実に彼は私の部屋の扉を叩いたのだろうか……それとも私と違って、そんな口実なんかなくても気軽に訪ねて来られるのかもしれない。 普段からしっかりと体を動かして健康的な生活をしているせいか、久しぶりに視界に映した彼は想像以上に元気そうだった。再び彼の部屋へと不法侵入を働いた私は、約三日ぶりに宮城くんと会話をしている。あの時の会話を、彼が覚えているかどうかは別として。 「さんでしょ?」 「ん?」 「おかゆ作って置いてってくれたの。」 やっぱり私の手を引いて引き留めたあの時の事を彼は覚えていないとその言葉が証明している。私があの後した事と言えば、一度自宅へと戻って卵で溶いた卵粥と解熱のため予備において行った鎮痛剤をそっとベッドの隣のテーブルに置いただけだ。 「……宮城くん死にそうだったから。」 「その節はご心配おかけしました。」 「ううん、生きててよかったよ。」 「おかげさまで。」 そう言うと、何だか決まりが悪いようにしている彼のかんばせがそこには存在している。両手を後ろに回していて、私が首を傾げていると右側の腕を前へと持ってきて、そして包装紙に包まれた箱を差し出した。 「……おみやげ。」 「あ、静岡の?」 「うん、買ってくるって言ったじゃん?」 受け取らないでいる私にぐいっと押し付けるようにそれを渡してきて、そういえば私は彼からの土産を待っていた事を思い出す。けれど同時に別のことに気づいてしまう自分に、いつものような言葉や小言は出て来ない。 土産を待っていたのではなく、彼と会う事を待っていた自分に気がついてしまったからだ。 「色々……ほんと、ありがと。」 「ん?どういたしまして。」 きちんとそれを受け取っても、彼のかんばせはまだ何だか焦ったい様子で、少しの間を隔ててもう一度首を傾げると渋るように今度は左側の腕が別のものを私に差し出していた。 「……そろそろこれ完成したんじゃない?」 いつかに私がベランダの非常扉を介して渡した瓶がそこにはあって、痛々しいほどに青かった梅が幾分も形を緩やかに柔らかくして色を濁らせていた。私が“完成する”と告げた時期よりも少しだけそれは早かったけれど、しっかりと熟されたそんな色味を宿している。 「……美味しそうだね?」 「取り出してみたらいい色になってたから………一緒に飲むって約束したの覚えてる?」 「そんなこともあったな〜、懐かしい。」 「え?なにその反応?」 想像していたよりも随分と違う反応だったのか、彼は少し口を尖らせて私に問いかける。想像していない出来事が起こると、彼はこうしてよく口を尖らせる。十ヶ月と少し、彼と過ごしてきた中で私が知っている彼の癖だ。 「一緒に飲もうと思ってこのお土産も買ってきた。」 「そうなんだ?」 「さんなら甘いのよりしょっぱいの!って言いそうな気がしたからさ。」 しっかりとこの一年に満たない時間で私のことを知ってくれた彼の土産は、いかにも私が好きそうな見るからにお酒に合いそうなしょっぱい名産菓子だった。包装紙に包まれたその土産を奪い取って、私に梅酒の瓶を託すとビリビリとその紙が破かれて中身が露見する。 静岡といえば鰻パイが有名なのだろうけれど、そこから出てきたのは鰻ボーンと書かれたいかにも酒飲みに好まれそうなパッケージだった。 「……で?展開見えて来ないけど。」 「意地悪かよ。」 「え〜、私意地悪ではないと思うけどなあ。」 次にどんな言葉を紡ごうとしているのかなんて本当は分かっているのに、それでもいつかに聞いた彼の言葉を復唱する私はやっぱり彼が言うように意地が悪いのかもしれない。けれど、自分の心を繋ぎ止めるには必要な言葉だった。 「ちょっと早いけど約束果たしにきた。」 「……うん。」 もう随分と前のことなのに、しっかりとその約束を覚えていてくれていた事実がどうしようもなく嬉しくて、そして傷を抉るように痛むような気がした。傷が痛むのはきっと──。 もう自分の得体の知れない感情が、然りと得体の知れるものに成り変わっているのがどうしようもなく分かって辛かった。 「病み上がりで私と勝負できる?」 「……勝負しないだろ。」 「うそ、お土産と一緒に飲もっか。」 その言葉が合図だったように彼は履いていたサンダルを丁寧に玄関で脱ぐと、遠慮がちに私の部屋へと上がってきた。私もずっと保管していた梅酒を床下収納から取り出して、そしてグラスを二つ取り出して氷を投げ入れた。 「さすがさんの部屋だなって思う。」 「どのあたり?」 「氷とソーダが出てくるあたり。」 「そりゃあね?だって私ですよ?」 「そ〜だった。」 何だか満足そうに笑う彼を見て、私はグラスに瓶から梅酒の原液を注いでいく。一つはロック、もう一つはソーダ割を作って、色を薄くさせたグラスの方を彼へと差し出した。分かっていたけど、何だか不服そうだ。 「……そこはおそろいじゃないんだ?」 「病み上がり仕様だから。」 「どう考えてもさんより俺のが強い。」 「まあね?」 それ以上会話を広げることはせず、最初に出会った時のように彼が手に持っている梅酒のソーダ割りの私が作ったグラスにカチンとグラスを重ね合わせて、そしてそれを飲み込んだ。 「うっま〜!」 「……女の子なんだからせめて美味しいじゃん?」 「へへ。」 カチンと鳴った音は、別れの盃だ。そして、決意を固めた。 私が始まらせない限り、きっと始まることも終わることもないだろうから。終わりは、始まらせてはいけない。 4号室. ただいまを言わせて |